ミルクバリューチェーン 特集1
中央製乳株式会社(愛知県豊橋市)
地域の酪農と共に歩む 83年の歴史を振り返る

j-milkリポートvol-37より

ミルクバリューチェーン 特集1

愛知県の酪農の主産地である豊橋市と田原市を基盤に、需給調整能力も活かした地域密着の経営に取り組んでいる中央製乳株式会社。対談特別編では、80年以上に及ぶ同社の歴史と、経営上の転換点を取り上げます。(聞き手=前田浩史・Jミルク専務理事)
  • 中央製乳株式会社 代表取締役社長
    川澄 宏匡(かわすみひろまさ)氏

地域酪農の中心として、酪農地帯に生まれた工場

前田浩史(以下、前田)  中央製乳さんの歴史には個人的にも大変興味を持っています。昭和の農業恐慌が終わって、地域経済が疲弊した頃に創業され、さまざまな転換点を経ながら地域密着の経営を続けられていますね。

川澄宏匡氏(以下、川澄)  弊社はここ豊橋市植田町で、1937(昭和12)年10月18日に設立しました。「一円融合」を社是に地域の乳業メーカーとして歩み、今年の10月で創業83年になります。
創業当時の豊橋市一帯は養蚕が盛んで、その農家さんに牛を与えて、最初は1頭飼いで乳を搾ってもらったそうです。それから規模を大きくしてもらって、徐々に乳量を増やしてきたと聞いています。

前田 昭和初期には養蚕の衰退が始まっていたので、この時期は全国的にも養蚕地帯に酪農が生まれるのです。国も養蚕からの転換を奨励して、牛の導入費用などにかなりお金を出していました。
しかし牛を飼うだけでは不十分で、近くに工場がなければ酪農は発展しません。当時この地域には、政治家の近藤寿市郎がつくった三河搾乳畜産組合や豊橋牛乳組合があり、そこに中央製乳さんの乳製品工場ができて、国の支援も得ながら酪農を振興されて、酪農地帯が生まれました。ですから、もともと地域との結びつきが非常に強いということですよね。
近隣に協同乳業さんや雪印乳業さんが進出してくるのは戦後なので、当時は本格的な乳業工場といえば中央製乳さんであり、地域の酪農の中心だったのだと思います。

川澄 そうですね。地域で市乳を扱っていた豊橋牛乳さんも私どもが合併した経緯がありますので。弊社が市乳を手掛けるのは戦後の1951年からで、それまではコンデンスミルクや粉ミルクが主体でした。そこから瓶詰め牛乳や瓶詰めのヨーグルト、さらにアイスクリームもつくり始めました。粉乳や練乳を原料にしてそうした商品展開が可能だったということです。
経営の転換点の一つが、1961年の本社工場の建て替えです。この年にアメリカのワイス社から育児用粉ミルクの製造委託を受け、1989年まで製造を続けました。弊社がドライヤーを持ち続けてきている所以です。創立当時から練乳や粉乳を扱い、乳を濃縮して粉にする基本的なノウハウと技術を持っていたのがよかったのだと思います


地産地消の追求が高付加価値商品の開発につながる

前田 この段階で、地域を中心とする“コンパクトな総合乳業メーカー”になるわけですよね。

川澄 はい。総合的な乳製品工場を、まさにコンパクトな形で実現したと言えます。市乳メインの他地域の中小メーカーの皆さんとは、そこが少し違うところです。

前田 地域に根差した小さな総合乳業工場があって、「一円融合」という理念の下で地域酪農との一体的な発展を目指してこられた。それが本誌でもご紹介した、地産地消型の高付加価値商品の開発にもつながっているのだと思います。地産地消の取り組みはどのように始まったのでしょうか。

川澄 創業時から根本にはあったのですが、一番のきっかけは1975年に生協さんとのお取引が始まったことです。現在のコープあいちさんの三河エリアに、みかわ市民生協さんがありますが、その前身である東三河生活協同組合さんとのお取引です。このときに生乳の産地を明確にしてというお話があり、現在も生協牛乳は豊橋、田原産の生乳を使っています。
いまは東海酪連さんが指定団体ですが、指定団体前の県酪連のさらに前には、地域には豊橋酪農さんと渥美東部酪農さんという二つの組合がありました。それが弊社の株主であり生産者でもあったのです。田原産の「どうまい牛乳」、豊橋産の「のんほい牛乳」。渥美町、赤羽根町産の「渥美半島酪農牛乳」という3商品もそうした経緯で生まれています。
創立50周年を控えた1986年には、地元産の牛乳とバターを使った新商品としてパンの製造も始めています。残念ながら2014年で休止しましたが、牛乳以外の地産地消型商品にも取り組んでいます。

前田 地域乳業さんが一番苦戦したのが1980年代後半ですよね。スーパーが台頭してセンターフィーなどを要求されるようになり、牛乳の利益率が低下する中で、さらなる安売りに走るという時代でした。

川澄 それは弊社も同じです。ただ先ほど言いましたように生協さんとのお取引が以前からあり、地元生産者の顔が見える商品として一定の価格を維持していただいたので、それは本当にありがたいと感じていました。
他社さんが安売り合戦に巻き込まれている中で、弊社はそればかりではなく、地域とのつながりを生かした高付加価値商品を持っていたこと。それを継続できたことが、新たな商品の開発にもつながっていると思います。
  • “地産地消3本柱”を含む商品群。多様な商品を製造する設備とノウハウが、需給調整にも貢献している。

乳業再編を経て、広域の学乳を一手に担うメーカーへ

前田 近年の状況はいかがですか。より地域に根差した乳業として、規模も拡大されている印象です。

川澄 2000年に入り、88口径の製品に対応するヨーグルトの専用工場を建設しています。当初の提携先の倒産もあって想定外のスタートでしたが、小岩井乳業さんからお声がけいただき、大きな果肉粒が入ったフルーツヨーグルトを小岩井さんのブランドで生産しました。2010年に小岩井さんが撤退されたあとは、本社にあった清涼飲料の工場を移して、現在は清涼飲料をつくっています。
この20年の間にさまざまな試行錯誤を繰り返しつつ、原点回帰のような意識の下で2007年に「どうまい牛乳」を発売しました。1980~90年代から地域の生産者は減ってきていたので、こういう商品をつくって少しでも生産者と生乳の減少に歯止めをかけたいという思いもありました。

前田 その後、地域乳業の統廃合がありますよね。そこもまた非常に大きな変換点だと思います。

川澄 乳業再編の動きが具体化したのは、2013年前後です。最初のきっかけは名古屋牛乳さんで、かつてあった中部乳業さんの廃業で学乳を引き継がれたのですが、その後経営的に厳しい状況になりました。そこで国の乳業再編事業に取り組み、名古屋さんと昭和牛乳さんの工場を閉めて、弊社に設備を増設して学乳の生産を引き受ける形になりました。
それまで弊社の学乳は豊橋と田原だけでしたが、そこに名古屋牛乳さん、同時期に撤退された豊田乳業さんとみどり乳業さんの供給エリアが加わり、名古屋市や豊田市を含む広域に広がります。当時、名古屋さんの分を全部は受けきれなかったので、雪メグさん、協乳さん、明治さんにも一部を引き取ってもらっています。
  • 同社では1951年から瓶詰め牛乳を製造している。

余乳処理の技術と販路を持つ、地域に不可欠な存在として

前田 どの地域にも共通しているのですが、いま残っている地域乳業さんの特徴は、じっと頑張ってきたところに、同業者の廃業で学乳が集約され、規模拡大によって安定しています。ではどういう乳業さんが残ってきたかが大事なところだと思うのです。私の持論は、中央製乳さんは残るべくして残った。一番の要因は、需給調整能力があったことですよ。

川澄
 それはそう思っています。従来から需給調整は年末年始も含めて必ずできていたので、学乳も弊社のキャパの中で対応できるだろうと考えていました。
実を言いますと、1989年にワイス社が育児用粉ミルクから撤退したことは、弊社の経営的にも影響が大きかったのです。しかし設備は残りますので、粉乳とバターによる余乳処理が可能になり、粉ミルクから余乳の処理へというシフトがうまくできました。
一番よかったのは、余乳で作った乳製品を販売する取引先を探して、乳業再編期まで維持できていたことです。今回の新型コロナ対応でもしみじみと感じたのですが、いくら設備があっても、製品の売り先がなければあまり意味がないのです。弊社の場合は販売先も含めた需給調整能力を持っていたことで、地域の中で生き残り、これだけの学乳を引き受けてこられたのだと思います。

前田 都府県では大手乳業が需給調整の仕事からほとんど手を引いていく中、それをやっていただける地域乳業メーカーさんが数少ないながら残っていて、そこが多元的な需給調整という点で優れた役割を果たし、企業としても自律的な経営をされています。
需給調整がどの程度できるかによって地域における位置づけが変化し、企業としてのレジリエンス、強靭性も培われていく。それがベースになって、地産地消の高付加価値商品の開発など、さまざまなことに挑戦できるという印象を受けますね。大変興味深いお話をありがとうございました。
  • 伝統的なバターづくりで使われる「チャーン」。こうした装置なども扱える熟練技術の継承は大きな課題と川澄氏。
  • 販売戦略担当部長の草柳 朋氏(写真左)は、「地産地消商品のファンを増やすためには、地道で継続的な取り組みが重要」と話す。
中央製乳株式会社

(本社)〒441-8134 愛知県豊橋市植田町字八尻12番地
TEL 0532-25-1157
http://www.chuomilk.co.jp