JR42 ミルクと生きるひと Vol.2
We Value Our Relationship.
さまざまな立場で酪農乳業に携わっている人々の思いを、誌面 を通じて共有する新企画です。
ミルクと生きる皆さんの言葉から、 持続可能な酪農乳業をつくるためのヒントを探っていきます。
ミルクと生きる皆さんの言葉から、 持続可能な酪農乳業をつくるためのヒントを探っていきます。
「日本独自の乳業の姿を、追い求めてきました」
商品開発に関わりながら日本食の本質を問い続ける
- 和仁先生は1955(昭和30)年に東北大学を卒業後、雪印乳業(現・雪印メグミルク)株式会社に入社されました。当時はどのようなお仕事をされていたのですか。
昭和30年代は経済復興に伴い乳製品需要が拡大した時期で、当時の雪印も本州への事業展開を図っていました。それに合わせて、統計的手法を取り入れた新しい品質管理規定をつくることになり、僕が作業を担当しました。
課題となったのが、食べ物の本質的な品質である「おいしさ」をどう測り、管理するかという点です。当時は乳製品の官能品質に関する国内指標はなかったので、米国農務省の指標などを参考に、工場で一定の官能品質を保つための手法や、それを評価する統計的モデルなども検討して規格化しました。
その後、米国の大学院で食品の冷凍利用を研究し、帰国後は生産課長として冷凍食品開発に関わりました。多様な商品を開発する過程で、乳製品だけでなく食品全般に対する広い視野を持つ必要が出てきました。その頃から、日本人の食生活の本質はどこにあり、それが世界的にはどんな位置を占めているかといった点にも関心を抱くようになりましたね。
- その関心が和仁先生のライフワークである食文化研究につながるのですね。
当初はチーズやバターなどの自社製品を、日本の〝みそ・しょうゆ文化〟の中でどう売るかという視点から、日本食の原点を学ぼうと思い、江戸料理の研究会に参加していました。
さらに一企業だけでなく、日本における乳業とは何なのか、どうあるべきかを考えるようになりました。欧米の真似ばかりしていても、日本に乳業は根付かないでしょう。明治期に取り入れた洋装をアレンジして定着させたように、日本独自の乳業(生産形態や企業経営、商品)を確立し、世界の中に位置付ける必要があります。そのためには、インドや中央アジア、中国など、欧米とは異なる乳文化を持つ国々のことも勉強しなければなりません。
梅棹忠夫先生の一連のモンゴル研究、特に乳利用に関する論文や、インド出張時にパニールなどで見られる独特の乳加工体系に触れたことも、こうした課題意識を持つきっかけになっています。食品以外の文化人類学の研究者たちと交流する中で、考えがさらに深まっていきました。その一人である石毛直道先生とは、その後の1992年に共著「乳利用の民族誌」を出版しています。
仕事と研究に没頭する日々 支えてくれた妻への思い
食文化研究に取り組んでいた50代前半には、社内では商品開発と事業開発の責任者を務めていました。当時開発した商品のひとつに、手で簡単に裂けるチーズがあります。これはしょうゆをつけて食べてもらうことを想定して、フレッシュチーズにうま味調味料を加えて味付けしています。
欧米のチーズ作りにはない考え方ですが、日本人が好むチーズにするためにはそうした工夫も必要なのです。また、乳糖不耐の多い日本人に向けた乳糖分解乳(乳飲料)も開発しました。日本独自の乳文化・乳製品のあり方を研究しつつ、それを商品として具体化できたのは大きな経験でしたね。
昼はサラリーマンの仕事をこなし、夜や休日は食文化研究の活動をするので多忙でしたし、カミさんにはいろいろと苦労もかけました。当時の彼女は料理教室を主宰して雑誌にレシピを連載するなど、今でいう女性料理研究家のような立場で、自らも食に関わる活動をしていたのです。
そのカミさんが55歳のときに脳梗塞で倒れ、完全介護が必要になりました。病院に入ったのですが、食事を口元に運ぶのは慣れた人でないと嫌がるので、僕が毎日朝夕、病院に通って手伝いました。晩年に再発してからは言葉も話せなくなりましたが、目で会話をしてくれました。本当は退職して子供も独立したら、二人で海外旅行にでも行きたかったけど、結局できなかった。30年近く介護したのは恩返しのつもりですが、それでもまだ足りません。うちのカミさんほどよく勉強して、僕を助けてくれた人はいないです。
欧米のチーズ作りにはない考え方ですが、日本人が好むチーズにするためにはそうした工夫も必要なのです。また、乳糖不耐の多い日本人に向けた乳糖分解乳(乳飲料)も開発しました。日本独自の乳文化・乳製品のあり方を研究しつつ、それを商品として具体化できたのは大きな経験でしたね。
- 和仁先生を長年支えた奥様の昭子さんへの思いを語られた記事も拝見しました。
昼はサラリーマンの仕事をこなし、夜や休日は食文化研究の活動をするので多忙でしたし、カミさんにはいろいろと苦労もかけました。当時の彼女は料理教室を主宰して雑誌にレシピを連載するなど、今でいう女性料理研究家のような立場で、自らも食に関わる活動をしていたのです。
そのカミさんが55歳のときに脳梗塞で倒れ、完全介護が必要になりました。病院に入ったのですが、食事を口元に運ぶのは慣れた人でないと嫌がるので、僕が毎日朝夕、病院に通って手伝いました。晩年に再発してからは言葉も話せなくなりましたが、目で会話をしてくれました。本当は退職して子供も独立したら、二人で海外旅行にでも行きたかったけど、結局できなかった。30年近く介護したのは恩返しのつもりですが、それでもまだ足りません。うちのカミさんほどよく勉強して、僕を助けてくれた人はいないです。
次の世紀までを見据えた酪農乳業の設計図提案を
- SDGsの視点も踏まえた持続可能な日本の酪農乳業のあり方と、Jミルクの活動への提言をお聞かせください。
まず前提として、家畜を毀損せず乳を獲得・利用する酪農は、肉を利用する畜産とは異なる生産形態だということ。両者を切り離したうえで、酪農がSDGsや食料確保、温室効果ガス削減といった課題にどう貢献できるのかを評価し、発信することが大切です。
酪農乳業の持続可能性には、食生活における乳利用の定着と、生産手段の持続性という両面がありますが、前者については全く心配していません。例えば乳酸菌のプロバイオティクスを謳うヨーグルトなどの乳製品が、これほど多く店頭に並んでいる国は世界で日本だけで、保健機能に着目した独自の乳利用として定着しています。コウジ菌で発酵させたチーズや酒粕を練りこんだチーズなど、ユニークな商品も続々と生まれています。
一方で、生産手段の持続性を高め、乳原料を安定的に確保していく点には課題もあります。平地が狭く斜面の多い国土を考慮すると、やはり中山間地の酪農利用の促進が今後の重要政策になると思います。世界人口の増加で食料輸入はこれまでより困難になるでしょう。国土を有効活用して食料生産力を増強することは、国の自立性を高めるうえでも重要です。
土地利用の見直しには法改正が必要ですし、国民の合意形成も欠かせません。生産側と消費側の双方の視点を取り入れて、50年後、あるいは次の世紀の日本酪農のあり方を示す設計図をつくり、政治や国民に提案していくことが大切です。そうした一人ひとりの声や情報を束ねるコア組織として、Jミルクが大きな役割を担っていくことを期待しています。