骨からみた日本人
ほわいと特集(全14回)2004年夏~2010年冬

ミルクでヘルスケア

骨からみた日本人

ほわいと特集(01/14)

国立科学博物館人類研究所/部長 馬場 悠男

縄文人の骨は丈夫だった!——人類がどう変わってきたのかを研究している、国立科学博物館の馬場悠男さんに「骨」の進化についてうかがいました。
国立科学博物館人類研究部(新宿分館)に収蔵されている日本出土の人骨資料は、現在約4,000体。
その多くは縄文や室町、江戸といった日本史の授業でもお馴染みの時代に生きていた人々の骨です。
遠い祖先の記憶がつまったタイムカプセルは、現代人に何を語りかけてくるのでしょうか。
人類研究部部長の馬場悠男さんにお話をうかがいました。

j-milk magazine ほわいと 2004冬号より

骨からみた日本人

157cmのアマレス体型

「縄文人とそれ以前の人の骨は、確かに丈夫だったと言えます。でも農耕文化が広まった弥生以降は、基本的に今の日本人と変わりませんね」
遺伝的に見ると今の日本人は渡来系弥生人、つまり北方アジア人の影響を強く受けているといいます。

一方、弥生人以前に日本に定住していた縄文人は、昔から東アジアに住んでいたのではないかと考えられます。
昔のホモサピエンスの特徴を持つ縄文人と、北方由来の弥生人に近い特徴を持つ現代人--そこにある遺伝的な相違を考えれば、一概に縄文人と現代人を比較することはできませんが、ある種の骨のかたちや厚みを見る限り、縄文人はやはり丈夫な骨を持っていたと言えそうです。

「軽量級のアマチュア・レスリング選手のような感じでしょうか。縄文人の平均身長は約157センチ(成人男性)と小柄でしたが、体つきはがっしりしていた。鎖骨の長さからすると肩幅もあったようです。筋力も相当あったはずで、たとえば大腿骨に筋肉が付着する部分などはかなり大きく隆起しています。骨の形でいえばスネの部分、脛骨ですね。現代人を含め、弥生以降の人の脛骨は断面がほぼ三角形なんですが、縄文人の多くはこれが前後方向に伸びた『ひし形』をしています(図1)。食糧を求めて山野を駆け回っていた彼らの暮らしぶりを考えると、これは、脛骨にかかる前後方向の負荷に耐えるための構造的適応と言えるでしょう」

縄文人のケースと同様、生活習慣を反映した脛骨の変化は、数千年後の江戸時代にも見ることができます。縄文人のような「ひし形」ではないものの、発掘された江戸の人々の脛骨は太く頑丈で、着物を着ていたために、膝から下であおるように歩いていたことによる影響が見受けられるそうです。
  • 図1:脛骨(けいこつ)断面の比較
    現代人に比べて、縄文人の「スネ」が後方に伸びたひし形をしていたことがよく分かる。こうした変化はふつう生活習慣によるところが大きいが、現役のサッカー選手でもここまでの変化は稀なことから、何かしら遺伝的な要素が作用していると考えられる
    資料・日本人のからだ──健康・身体データ集(朝倉書店/1996)ほか

縄文人はいい顔ぞろい

脚や腕などとは別に、縄文人には、後に農耕社会を築いていった弥生時代以降の日本人にはない大きな特徴があります。
「顔ですね、特に顎の骨。レントゲン撮影してみると、縄文人とそれ以降の時代の人の骨とでは下顎の緻密質の厚さがかなり違いますから。木の実など固いものをたくさん食べていただろうし、小魚なら丸ごとでしょうね。それが証拠に、縄文人の歯の多くは歯冠のエナメル質が見事にすり減っているんです」

実際に縄文人の下顎骨を見せてもらったところ、歯の噛み合わせ部分に窪みがなく、真っ平らなものが多いのに驚きます。さぞや虫歯になりにくかったのだろうと思って聞いてみると、噛み合わせ部分ではなく歯の側面に虫歯の痕跡が見られるそうです。

「ただ弥生以降の人に比べれば明らかに少ないですよ、虫歯は。それと縄文人の多くはとても歯並びがいい。よく咬むことで顎自体が発達し、歯も減るので、上下の噛み合わせがピシッと決まるわけです。もともと鼻が高くて立体的なのが縄文人の顔です。そこにシャキッと引き締まった口元がくるわけですから、きっと顔立ちのしっかりしたいい顔が多かったんでしょう」

固い食べ物を咀嚼することで鍛えられた縄文人の顎の形は、その後、稲作が広まり柔らかいものを常食するようになるにつれ、次第に影を潜めていくことになります。
  • ずらりと居並ぶ頭蓋骨のなかで見事、馬場さんの眼鏡にかなったのが、この「縄文美人」。
    「私の考える美人の条件は、まず横顔に品があること。そうやって見ていくと、どうしても噛み合わせのいい縄文女性に行きあたります。これだけ引き締まった口元はそういませんよ。きっときれいな横顔だったんでしょう」(馬場さん)
  • 縄文人の復元想像図

    目鼻立ちがくっきりとして凹凸が激しいのが特徴。頬骨の大きな張り出しは、がっしりとした広い顔を物語っている
    (イラスト:石井礼子)
  • 渡来系弥生人の復元想像図

    全体的に面長でのっぺりとした顔立ち。まぶたの脂肪がよく発達していたので目は細く、唇も薄かったと考えられる
    (イラスト:石井礼子)

骨が語る食卓事情

現在では古人骨に残されたわずかなコラーゲンの組成から、その人の生前の食生活をかなり正確に解読できるようになりました(図2)。安定同位体分析によれば、現在の関東平野あたりに住んでいた縄文人の食生活は、戦前日本人のそれに近い内容だったとされています。

「グルメとは言いませんが、かなりいろいろなものを食べていたことは確かですね。当時のカルシウム源としては、海辺なら小魚や小エビなどを中心に、アサリやハマグリ、カキといった貝類。内陸部では川魚をはじめクルミなどのナッツ類。スズメやネズミのような小動物は骨ごと食べていたと考えられます」

牛乳はおろかまだ牛さえも存在しなかった縄文期の日本で、人々は山海のさまざまな恵みから、カルシウムを得ていたのでしょう。しかし彼らの骨の内側に目を向けると、そこには当時の厳しい暮らしぶりを物語る痕跡が刻まれています。

「栄養失調や病気などで一定期間成長が止まると、骨の両端に化骨作用が起きて、レントゲンで見たときに、ハリス線と呼ばれる横線が残ります(図3)。縄文人の骨にはこれがかなりの頻度で見られますね。丈夫そうに見えても、栄養状態は相当不安定だったのでしょう。それから背骨には骨粗しょう症の痕跡を見ることも珍しくありませんが、現在のように加齢が大きな要因と言えるかどうか--縄文人の寿命はせいぜい35歳から40歳だったわけですから」
  • 図2:地域別に見た縄文人の食生活
    資料・人骨のコラーゲン同位体組成と食資源データベースから推定されるたんぱく質の資源となった食物群の割合──縄文人の時代・増補版(戸沢充則【編】/新泉社/2002)より
  • 図3:脛骨レントゲン写真にみられるハリス線
    資料・日本人はるかな旅展(国立科学博物/2001)カタログより

縄文人より小さかった江戸人

有史以来、私たち日本人の身長はゆるやかに伸び続けてきた--それがごく一般的な認識ではないでしょうか。しかし縄文から現代にいたる数々の骨の計測データは、日本人の身長が常に上昇カーブを描いてきたわけではないことを示しています(図4)。

「明治頃までで見ると、日本人の身長が最も高かったのは、実は弥生から古墳時代にかけてなんです。この時代の人々は大陸から渡来したいわゆる北方アジア系で、成人男性の平均身長はおよそ163cm、女性は152cmほどありました。逆ノ最も小さかったのが江戸末期から明治初頭にかけての人々です。男性の平均身長は155cm、女性は143cm程度でしたから、縄文人の平均身長よりも小さかったことが分かります」

社会がかたちづくられ人々の暮らしに安定がもたらされるなかで、しかし身長は下降線をたどりました。なぜでしょう--。

「ひとつには一定の資源を分かつために、人間一人ひとりのサイズが小さくなったということです。乳幼児の死亡率が下がることで個体数(人口)は増えましたが、食糧資源には限りがあるため、一人ひとりの栄養状態はなかなかよくならない。要するに人々は死なない程度にカツカツの状態で生きており、その結果として体が小さくなった。そう考えるのが自然だと思います」

現在、日本の総人口は江戸中期のほぼ5倍に達し、平均身長でも当時をはるかに上回りました。その背景に医療技術の進歩と栄養状態の向上があったことは言うまでもありません。
  • 図4:日本人の身長の変化(女性)
    ●縄文~弥生時代は、各地域の平均推定身長
    ●古墳~江戸時代は、関東出土の人骨より算出
    ●明治33年以降は、文部科学省(旧文部省)の生体計測資料より

モダニゼーションと日本人の奇跡

明治維新以降、文明化とともに日本人の体格がみるみる向上していったことはよく知られています。明治4年には、当時の新聞雑誌に「天皇陛下は毎日2回牛乳を飲む」という記事が掲載されたことで国民の間に牛乳飲用の習慣が広まるなど、栄養面の改善も進みました。古墳時代を頂点に下降線を描いてきた日本人の平均身長は、この時期を境に10年に約1cmのペースで上昇し始めます。

「明治以降もそうですが、急激に変わったのはやはり戦後でしょう。成長期に牛乳を含めた動物性たんぱくやカルシウムをしっかり摂る│その効果がこれほど顕著なかたちで表れた国も珍しい。縄文人はおよそ1万年をかけて3~4cm身長を伸ばしましたが、戦後の日本人は数十年足らずの間に10cm近くも大きくなりましたから」

明治以降に見られる日本人の急激な変化は、これまでの人類学の物差しでは計れない種類のものだと馬場さんは言います。

「言ってみれば時流化、モダニゼーションですね。つまり遺伝子変化をともなうものではないわけですが、一方で私たち日本人にそれだけの遺伝的素養があったことも事実です。日本人の平均身長がここ数年停滞しているのを見ると、今の170cmちょっというのは日本人の素質でいうマキシマムの値なんだと思いますね。反対に、江戸時代の平均155cmは日本人のミニマム値でしょう。遺伝的な制約のなかで、栄養状態がよければ大きくなるし、そうでなければ小さくなるというわけです」

日本全体で見れば、現代人の体格はほぼピークに達したとされています。ただ1人ひとりのピークを引き出すという意味では、バランスのとれた栄養摂取は今も重要なファクターだと言えそうです。

「私も飲んでますよ、ミルクティーを毎日4杯。もちろん身長云々ではなくて体のためですけれど。よく現代人は弱くなったなんて言いますが、私はそうは思いません。骨を見てると思うんです、ひと昔前の同世代と比べたら私だってずいぶん若い方なんじゃないかって」
  • 「条件さえ整えば、縄文人も現代人と同じくらいの平均身長になっていたかもしれません」と馬場さん。手前は、例外的に大きな推定171cmの縄文人男性の大腿骨

縄文時代---海の向こうの牛乳史

今からおよそ6,000~5,000年前にあたる縄文前期。縄文人の食卓に牛乳の痕跡は見られませんが、同じ時期、海の向こうのメソポタミア(現在のイラク周辺)では、シュメール人たちによってすでに牛が飼育され、牛乳が飲まれていたようです。

約5,000年前のものと思われるメソポタミア王朝のレリーフには、人が牛の側面からではなく、後ろ足の間から手を伸ばして搾乳する場面が描かれています。それ以前から行われていたヤギや羊の搾乳法を、そのまま牛に用いたためでしょうか。その後、牛乳を飲む文化は古代エジプトへと渡り、4、300年ほど前の壁画や石棺には、現在のように牛の横にしゃがんで搾乳する古代エジプト人の姿を見ることができます(写真)。

ヤギの乳などよりもずっと多量で味もよく、繰り返し食糧となる牛乳は、紀元前の人類にとって貴重な栄養源だったのでしょう。牛乳はその後、気候風土に応じてさまざまにかたちを変えながらヨーロッパ、インドへと広まりました。長い時を経てようやく日本にたどり着いたのは645年、飛鳥・奈良時代になってからのことです。
  • ファラオ墓所の壁面に描かれた搾乳の様子(約4,300年前)

日本人の未来顔 お話・馬場 悠男さん


ほっそりした顎でしょう。でもこういう人、実は昔からいたんです。お殿様ですね。江戸時代の大名家の人々の顔(骨)なんかを見てみると、こういった傾向は如実です。江戸の庶民と比べると、本当に同じ時代の人かと思うくらいに顔が細い。やっぱり軟らかいものばかり食べていたんでしょうね。今の若い人などは、こっちの方がいいと言うかもしれませんが、実際、歯並びは悪くなるし虫歯にもなりやすい。個人的には縄文人の引き締まった口元の方が断然いいと思いますが。


頭のかたちというのは、時代時代で結構変化しています。頭を上から見たときのかたちが前後に長く、左右に狭い楕円形になることを『長頭』と言いますが、歴史上このタイプが最も多いのは鎌倉時代ですね。頭というのは脳の容器ですから、外からの制約がなければ球形に近くなる││その方が脳にとって居心地がいいわけです。最近の傾向としては、側頭筋による横からの締めつけが弱くなって、頭が丸くなりつつあります(短頭化現象)。

まとめ
CGなどのコンピュータ解析でも、だいたい同じような顔になります。このままいくと、いつかはアイスクリームコーンに丸いアイスクリームを乗せたような顔になりそうですね。体と同じように顔の骨だって、鍛えればある程度は厚く頑丈になります。最近は、咀嚼筋の筋力が正常(その人の体重と同じ程度)の半分にも満たない子どもが増えているそうですが、頭や体と同様、顔を鍛えるのを忘れないで欲しいと思います。

  • 日本出土の人骨計測データをもとに描かれた未来人のイメージ(イラスト・石井礼子)

骨と牛乳消費量の関係

世界各国の平均身長データと1人あたりの牛乳消費量(年間)を重ねてみると、消費量の多い国は、おおむね平均身長も高いという相関性を見ることができます(下図)。
むろん骨の成長にはカルシウムだけでなく、たんぱく質やビタミンDなどさまざまな栄養素が欠かせないことを考えれば、安易に牛乳=高身長という結論を導き出すことはできません。しかし学校給食に牛乳がなかった頃に比べて、中学3年生(男子)の平均身長が現在までに15cm近く伸びた日本の例などを見ても、牛乳・乳製品が成長期の骨づくりに一役かっていることは確かなようです。
  • 世界各国の平均身長(男性)と牛乳消費量
    資料・ZMP/National Statistics EUROSTAT/USDA Economic Service/食料需給研究センター/文部科学省保健統計調査 ほか

図解 骨づくりの神秘

人間の骨の中に、骨をこわす細胞があるのをご存知ですか?反対に骨を修復する細胞もあります。この両者があるおかげで、骨組織は形成されています。

骨のスクラップ・アンド・ビルド

私たち人間の骨にも存在する破骨細胞は、その名のとおり骨をこわす細胞。この破骨細胞は、骨の表面をこわしていきます。

もちろん、こうした破壊があちこちで続けば、いかに硬い骨といえどもひとたまりもありません。ところが人間の体というのはうまくできているもので、骨をこわす細胞があれば、反対にそれを修復する細胞「骨芽細胞」も存在するのです。

破骨細胞による「骨吸収」の働きと骨芽細胞による「骨形成」の働き。「こわす」と「つくる」--いわばスクラップ・アンド・ビルドを繰り返しながら、骨はたえず丈夫で新しい骨組織を形成しているのです。

連携する骨とカルシウム

骨というと、まずカルシウムを連想する人が多いのではないでしょうか。確かに、人間の体内にあるカルシウムの99%は骨のなかに存在しており、残りのわずか1%ほどが血液中などに含まれて体中を巡っています。

では、カルシウムはなぜ骨ばかりに集中するのでしょうか。鍵は、私たちの体内で常に一定に保たれている血中カルシウム濃度にあります。

血中カルシウム濃度(0.01%濃度)は非常に狭い範囲内で保たれていますが、この範囲から少しでも上下に外れると、人は筋肉の痙攣や吐き気といった症状に見舞われます。さらにそうした状態が長引けば、生命にかかわることさえあるのです。

カルシウムは必要なときに必要なだけ、しかも即座に血液へと供給されなければなりません。そのためにカルシウムは、血管から近くて隔離された場所、骨に貯蔵されている必要があるのです。

骨は、体を物理的に支えているだけではありません。体内のカルシウム濃度を一定に維持することで、人の健康を内側からも支えているのです。

カルシウム・パラドックスとは?

※パラドックス=逆説の意
簡単に言えばカルシウムが不足すればするほど、血液中のカルシウム濃度が増すという不思議な現象のことです。

なぜ、そんなことが起きるのでしょうか。

たとえばバランスを欠いた食生活を続けていて、カルシウムの摂取量が不足したとします。危機感をおぼえた体は、副甲状腺ホルモンを分泌させて骨からカルシウムを溶かし出し、体内(細胞)へと補給します。つまりカルシウム不足が続けば続くほど骨からの補給量が次第に増加して、血液中のカルシウム濃度が必要以上に高くなってしまうのです。

見方を変えれば、カルシウム・パラドックスは生命維持に欠かせない現象なのですが、問題はそのあとで生じるマイナス要因です。過剰なカルシウムが血管壁をつくっている細胞に蓄積されると、それが原因となって高血圧や動脈硬化を招くこともあるのです。

大切なことはただひとつ。体が危機感を感じるような状態を避けるためにも、日頃からカルシウムをしっかり摂ること。吸収率と手軽さで言うなら、やはり牛乳・乳製品がおすすめです。

画像で見る骨代謝のメカニズム

骨はどのようにしてつくられるのか。骨細胞の活躍を図解で説明します。

1:骨細胞たちのすみか

骨を輪切りにしてどんどん拡大していくと、筒状の配列が見えてきます。
中心の大きな穴(ハバース管)には毛細血管と神経が走り、その周りを同心円状に囲むピンホール(骨小腔)のなかには、血管に養われて育つ骨細胞が暮らしています。

2:骨細胞の姿

穴の中に見えるのが骨細胞です。四方に伸びた細胞突起は、無数の仲間たちと連絡を取り合うためのもの。
ネットワーク暮らしを送っていた骨細胞のなかに、やがて骨づくりに向けて動き出すものが現れます。骨芽細胞です。

3:破骨細胞の登場

はじめは単核で小さな破骨細胞も、いよいよ骨を「こわす」ときが迫ると、仲間と結合を繰り返し巨大な多核細胞へと成長していきます。
そして骨に接したかと思うと、吸い付くようにして骨を溶かしていきます。

4:骨芽細胞の出番

破骨細胞が消え去ると、いよいよ骨芽細胞の出番です。
骨芽細胞は、破骨細胞が開けた穴を埋め直すようにして新しい骨をつくっていきます。
破壊と構築、このバランスのとれた繰り返しを骨のリモデリングと言います。

5:まとめ

骨はその硬さもあって、ほとんど変化しないと思われがちですが、こうしてみると周辺の細胞とともに、活発に生きていることが分かります。

その身を削りながら私たちの健康を支えてくれる骨のためにも、日頃から骨が喜ぶ栄養摂取を心がけたいものです。
  • 国立科学博物館人類研究所/部長 馬場 悠男
    東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻教授(併任)。1945年生まれ。東京大学理学部背う物学科人類学課程卒業、同博士課程中退。独協医科大学解剖学助教授を経て現職。専門は人類形態進化学。人類の進化や日本人の起源を、身体の形態と機能との関係から分析。また縄文顔と弥生顔に関する研究なども行っている。