江戸時代初期に南部藩で行われた搾乳は、第1回目でご紹介したように、「南部藩雑書」の記録では短期間で終わりました。しかし、牛の飼育はその後も続き、明治時代になると、それまでの農耕や荷役に利用する目的だけではなく、肉や乳の生産と結びついた牛の飼育が始まります。そこで今回は、幕末から明治にかけての牛飼育をたどってみます。
第2回 北上山地で始まった肉牛や乳牛の生産
牛馬を飼育して現金収入を得る
北上山地の太平洋側は、寒流の影響で、春から夏にかけて「山背 」と呼ばれる冷たい湿った風が吹き、濃霧や小雨で日照時間が少なく気温も20℃に達しない日が多いため、満足に米を収穫できませんでした。そのため、農村は大変貧しく、小さな規模の農家は商人や富農に借金を繰り返し、それを返済するために、わずかな農地さえも取り上げられるという始末でした。こうした中、日々の暮らしを支えるために、米などの農産物だけではなく、優秀な馬や牛を育て販売し、現金収入を得ることが重要でした。
牛の飼育は立分 制度で行われていました。すなわち、貧しい小作農家では牛を自家購入する資金がありません。そこで、地主が所有する牝 牛を借り受けて飼育し仔牛を生ませます。その仔牛を売却し、代金を地主と折半することで現金収入を得ます。地域により様々なやり方があったようで、牝の仔牛が2頭生まれれば1頭を地主に返し、残りを自分のものにするやり方もありました。
牛の飼育方法は、夏季は山に放牧し冬季は自宅の畜舎で飼う舎飼方法で、「夏山冬里方式」と呼ばれました。山頂のなだらかな部分が「野場」で夏季放牧地です。斜面部分は「立野 」と呼ばれ、建材や燃料用の木材、炭焼き用の薪、山菜などを採取していました。「刈場 」は牛の飼料となる牧草地で、山頂の野場に放牧する前にはまずここに牛を連れて行って馴らし、それから野場に移動しました(写真1)。刈場の「刈」は、動物の狩猟だけではなく草(植物)を「刈る」の意味もある言葉です。刈場では、青草生い茂る夏から秋に草刈りが行われ、それを乾燥させて作った干し草(秣・まぐさ)が冬場の牛の餌として貯蔵されました。また、牡 牛も野場に放牧されて自然交配が行われ、翌年には子牛が産まれました。
牛の飼育は立分 制度で行われていました。すなわち、貧しい小作農家では牛を自家購入する資金がありません。そこで、地主が所有する牝 牛を借り受けて飼育し仔牛を生ませます。その仔牛を売却し、代金を地主と折半することで現金収入を得ます。地域により様々なやり方があったようで、牝の仔牛が2頭生まれれば1頭を地主に返し、残りを自分のものにするやり方もありました。
牛の飼育方法は、夏季は山に放牧し冬季は自宅の畜舎で飼う舎飼方法で、「夏山冬里方式」と呼ばれました。山頂のなだらかな部分が「野場」で夏季放牧地です。斜面部分は「立野 」と呼ばれ、建材や燃料用の木材、炭焼き用の薪、山菜などを採取していました。「刈場 」は牛の飼料となる牧草地で、山頂の野場に放牧する前にはまずここに牛を連れて行って馴らし、それから野場に移動しました(写真1)。刈場の「刈」は、動物の狩猟だけではなく草(植物)を「刈る」の意味もある言葉です。刈場では、青草生い茂る夏から秋に草刈りが行われ、それを乾燥させて作った干し草(秣・まぐさ)が冬場の牛の餌として貯蔵されました。また、牡 牛も野場に放牧されて自然交配が行われ、翌年には子牛が産まれました。
野場には牛の頭数に応じて「べこまぶり」と呼ばれる監視人が泊まり込み、牛の病気や事故があった場合には直ちに牛主に連絡し、応急処置や獣医の手配をすることになっていました。なお、舎飼いでは麦や豆などの穀物を切り混ぜたもの、それに大根、かぶ、かぼちゃなどを混ぜて与えました。畜舎内には干草を敷くことが一般的でした。
牛の繁殖や育成の場合は、乳牛でも肉牛でも、夏山冬里方式が行われましたが、乳牛からミルクの生産を始めるようになると、年間を通して搾乳が行われることから、夏山冬里方式による夏場の放牧は行われなくなりました。
こうした「夏山冬里方式」は、世界の多くの地域で行われる方式で「垂直移牧」と呼ばれます。有名なアニメの「アルプスの少女ハイジ」では雇われ人のペーター(「べこまぶり」に当たります)が山羊を山の放牧地に連れていく様子が描かれていますが、これと同じようなことが日本の北上山系でも行われていたのです。ヨーロッパの山岳地帯では、夏場は柔らかい牧草が豊富にある山頂付近の草原で牛や山羊、羊を放牧し、乳からチーズを作ります。チーズは大型で長期熟成させるハードタイプが中心でした。このチーズは俗に「山のチーズ」と呼ばれ、飼育した土地に特有な青草の風味が特徴でした。青草が少なくなる秋になると牛や山羊などは山を下り、里では小型のチーズを製造していました。山の上で作られた大きなチーズは、頭数に応じて酪農家に配分されます。
日本の近代化とともに、飲用の牛乳ばかりでなく、北海道にあった当時の七重勧業試験所ではチーズの製造についても伝えられました。しかし、チーズを伝えたのはアメリカ人であり、かつ日本で製造された初期のチーズは日本人には受け入れられず、チーズを作ることは思いもよらなかったのでしょう。歴史に”もし”が許されるならば、仮に明治の早い時期に、日本人にも受け入れられるチーズを作ることができていれば、日本の酪農の姿は大きく違っていたでしょう。米や農作物があまり採れない山間地域は、豊かなチーズの生産地帯に成長していたかもしれません。
牛の繁殖や育成の場合は、乳牛でも肉牛でも、夏山冬里方式が行われましたが、乳牛からミルクの生産を始めるようになると、年間を通して搾乳が行われることから、夏山冬里方式による夏場の放牧は行われなくなりました。
こうした「夏山冬里方式」は、世界の多くの地域で行われる方式で「垂直移牧」と呼ばれます。有名なアニメの「アルプスの少女ハイジ」では雇われ人のペーター(「べこまぶり」に当たります)が山羊を山の放牧地に連れていく様子が描かれていますが、これと同じようなことが日本の北上山系でも行われていたのです。ヨーロッパの山岳地帯では、夏場は柔らかい牧草が豊富にある山頂付近の草原で牛や山羊、羊を放牧し、乳からチーズを作ります。チーズは大型で長期熟成させるハードタイプが中心でした。このチーズは俗に「山のチーズ」と呼ばれ、飼育した土地に特有な青草の風味が特徴でした。青草が少なくなる秋になると牛や山羊などは山を下り、里では小型のチーズを製造していました。山の上で作られた大きなチーズは、頭数に応じて酪農家に配分されます。
日本の近代化とともに、飲用の牛乳ばかりでなく、北海道にあった当時の七重勧業試験所ではチーズの製造についても伝えられました。しかし、チーズを伝えたのはアメリカ人であり、かつ日本で製造された初期のチーズは日本人には受け入れられず、チーズを作ることは思いもよらなかったのでしょう。歴史に”もし”が許されるならば、仮に明治の早い時期に、日本人にも受け入れられるチーズを作ることができていれば、日本の酪農の姿は大きく違っていたでしょう。米や農作物があまり採れない山間地域は、豊かなチーズの生産地帯に成長していたかもしれません。
幕末から明治初期における牛の役割
藩政時代から明治にかけ野田浜付近(現・岩手県九戸郡野田村)には10か所に塩釜があり、直煮法による製塩が行われていました。野田地方で製塩された「野田塩」は鉄などと共に牛の背に積まれ運ばれました。牛方は一人で7頭のコティ(3才以上の雄牛)を追って細く険しいベコの道(塩の道)を北上川流域や、さらには奥羽山脈に分け入り塩の行商をしていました(野田村観光協会ホームページ)。
牛は物資の運搬用として重要でしたが、1869(明治2)年に鋳銭 禁止令が出ると、野田の鉄産業が没落し、牛による運搬が減少しました。しかし、外国人の牛肉需要が増加し、これに対応する必要から、1870(明治3)年、明治政府の民部省勧農局(後の農商務省)が元々馬の生産を目的にしていた九戸 郡の野田岬にあった旧藩営の野馬牧場を県営にし、肉牛の育成牧場に切り替えました。
牛は物資の運搬用として重要でしたが、1869(明治2)年に鋳銭 禁止令が出ると、野田の鉄産業が没落し、牛による運搬が減少しました。しかし、外国人の牛肉需要が増加し、これに対応する必要から、1870(明治3)年、明治政府の民部省勧農局(後の農商務省)が元々馬の生産を目的にしていた九戸 郡の野田岬にあった旧藩営の野馬牧場を県営にし、肉牛の育成牧場に切り替えました。
岩手県全体での牛飼育の動向
表1は明治~大正における岩手県内で飼育していた牛の種類別変化を示したもので、明治から大正にかけて和種が減少し、洋種および雑種(交雑種)が増加しています。地域別では二戸郡、下閉伊郡と九戸郡が中心で、岩手県全体で飼育していた牛の約80%をこの3郡が占めています(表2)。運搬用から乳牛および肉牛が増え、農家の換金産物となりました。このように、岩手県北部、特に岩泉は南部牛を基本として乳肉用牛の飼育、発展に多大な貢献を果たしたのです。
北上山地北部においては上記したように、和種のみならず洋種を導入し牛の改良が行われてきましたが、明治中期~大正年間における岩手県全体の飼育牛数は15,000~25,000頭で増減しています(図1)。凶作や経済界の不況があると飼育牛数も減少しており、農家が生活に困り飼育牛を余儀なく売却したことを物語っています。
1887(明治20)年には岩泉に産牛取引市場が開設され、1894(明治27)年に日清戦争が起きると軍用の肉牛需要や一般の国内消費も増えました。1898(明治31)年に盛岡に種馬厩 が開設され、1899(明治32)年には下閉伊 郡に畜牛組合ができ、短角牛の生産販売が盛んになりました。1900(明治33)年には岩手県内で牛の病死が増え、1902(明治35)年には飼育牛頭数が14,000頭弱まで減少しました。
1887(明治20)年には岩泉に産牛取引市場が開設され、1894(明治27)年に日清戦争が起きると軍用の肉牛需要や一般の国内消費も増えました。1898(明治31)年に盛岡に種馬厩 が開設され、1899(明治32)年には下閉伊 郡に畜牛組合ができ、短角牛の生産販売が盛んになりました。1900(明治33)年には岩手県内で牛の病死が増え、1902(明治35)年には飼育牛頭数が14,000頭弱まで減少しました。
1901(明治34)年には盛岡の種馬厩は県立種畜場と改称され、翌年には滝沢村に移転しました。滝沢村は優秀な馬産地として有名でしたが、戦後の1957(昭和32)年には土地の一部が陸上自衛隊岩手駐屯地となり、残りが相の沢牧野(写真2)として牛の飼育を請け負うようになりました。
1908(明治41)年になると畜産奨励が活発となり肉用としての屠殺が増加しましたが、洋種が増加し牛飼育数が増えました。日清戦争で肉用牛の飼育数が大きく増えましたが、1910(明治43)年になると日露戦争による戦争景気も終わり、凶作や洪水の影響を受け飼育数が減少していきました。この頃には主として洋種と雑種の合計が和種の飼育数を超えています(表1)。さらに小岩井農場などがホルスタインを積極的に導入していますが、牛乳の需要はわずかでした。
1905(明治38)年に岩泉-小川-江刈-葛巻-沼宮内 を結ぶ県道が完成すると、短角牛(南部牛とショートホーンの交配種)の販売はますます盛んになりました。写真3は我々の調査中に行われていた短角牛の共進会の様子です。
1908(明治41)年になると畜産奨励が活発となり肉用としての屠殺が増加しましたが、洋種が増加し牛飼育数が増えました。日清戦争で肉用牛の飼育数が大きく増えましたが、1910(明治43)年になると日露戦争による戦争景気も終わり、凶作や洪水の影響を受け飼育数が減少していきました。この頃には主として洋種と雑種の合計が和種の飼育数を超えています(表1)。さらに小岩井農場などがホルスタインを積極的に導入していますが、牛乳の需要はわずかでした。
1905(明治38)年に岩泉-小川-江刈-葛巻-沼宮内 を結ぶ県道が完成すると、短角牛(南部牛とショートホーンの交配種)の販売はますます盛んになりました。写真3は我々の調査中に行われていた短角牛の共進会の様子です。
岩手県北部における短角牛と洋種牛の導入
「岩泉地方史 上巻 関口喜多路編(1980)」によれば、1864(元治1)年、気仙郡の貿易商水谷斉之助が濠州から純粋短角牛の牡を輸入し、南部牛の産地として著名な下閉伊郡穴沢村にて、たまたま発情期を迎えていた工藤家が所有する短角牛牝3頭と交配させたところ、翌年誕生した仔牛が優秀であった旨の記載がありますが、一般的には、南部牛に米国から輸入された短角牛を交配させたものが日本の短角牛の始まりと考えられています。
1848(嘉永1)年に遠野に生まれた山奈宗真は、1870(明治3)年小国 村(現、宮古市小国)に三浦武と共同で100町歩(約100ha)の土地を借りて、牛11頭、馬21頭を飼育しました。しかし、当時小国村では狼が頻繁に出没し放牧していた牛馬は大きな被害を受けました。それでも狼被害に屈することなく、山奈は各地を視察し、1874(明治7)年に450haの牧場を開設して政府から官牛36頭を借りうけ繁殖育成に努めました。そして搾乳した牛乳と山ぶどうから作った葡萄酒を販売しました。今日では新鮮な牛乳から作ったチーズとワインの組み合わせは珍しくはないのですが、当時としては余りにも斬新すぎました(森嘉兵衛「岩手をつくる人々」法政大学出版局、1974)。
1871(明治4)年には、明治政府は米国から純粋短角牛種牛2頭を輸入し、下閉伊郡岩泉村の地主・小泉家と小川 村(現、岩泉町)の地主・山岸家に各1頭を貸し付け南部牛と交配させました。交配牛は骨格、乳房ともに和牛より優れていたため、岩泉村の地主たちは、需要が高まることを見越して、1876(明治9)年までに5~6頭を借り受け、短角種の系統が30頭くらいとなりました。
さらに、1877(明治10)年には勧農局が短角デボン系を民間に貸下げ、1883(明治16)年には短角牛や東北褐毛種(毛並みが褐色の肉用和牛)を強化しました。
米国から輸入された短角牛を貸与された小泉仙七の弟小泉伊兵衛は盛岡に分家し、市内で牛乳屋を営む傍ら搾乳牛も飼育し、1892(明治25)年には岩手県初となるホルスタイン種の雄雌2頭を導入しました。その後も代々畜牛改良に取り組みました。小泉仙七の子である市兵衛は東京の巣鴨や梅田(現、足立区梅田)に牧場を開設するとともに、以前から交流のあったウィンスタイン牧場(横浜市)から種牡牛を導入しました。写真4は現在でも居住されている小泉家の洋館で築100年をゆうに超えています。
小泉伊兵衛は、1882(明治15)年頃に盛岡で牛乳を販売し、1892(明治25)年には岩手県で初めてホルスタインの牡牝2頭を導入しています。また、葛巻の遠藤福一郎も東京や横浜からエアシャー、ホルスタイン、ジャージーなどの仔牛10数頭を購入し、江刈村の村木吉男も下総御料牧場からエアシャーの種牛を購入しました。この時期以降、各地からホルスタイン種牛の導入が行われ、岩泉は、東日本有数の乳牛資源供給産地となり、わが国における酪農生産の普及に重要な役割を果たすことになりました。大正期前半の記録によると、下閉伊郡には牛の市場が20箇所くらい設置され、年間、2~3千頭の牛が取引されるようになりました。
1848(嘉永1)年に遠野に生まれた山奈宗真は、1870(明治3)年小国 村(現、宮古市小国)に三浦武と共同で100町歩(約100ha)の土地を借りて、牛11頭、馬21頭を飼育しました。しかし、当時小国村では狼が頻繁に出没し放牧していた牛馬は大きな被害を受けました。それでも狼被害に屈することなく、山奈は各地を視察し、1874(明治7)年に450haの牧場を開設して政府から官牛36頭を借りうけ繁殖育成に努めました。そして搾乳した牛乳と山ぶどうから作った葡萄酒を販売しました。今日では新鮮な牛乳から作ったチーズとワインの組み合わせは珍しくはないのですが、当時としては余りにも斬新すぎました(森嘉兵衛「岩手をつくる人々」法政大学出版局、1974)。
1871(明治4)年には、明治政府は米国から純粋短角牛種牛2頭を輸入し、下閉伊郡岩泉村の地主・小泉家と小川 村(現、岩泉町)の地主・山岸家に各1頭を貸し付け南部牛と交配させました。交配牛は骨格、乳房ともに和牛より優れていたため、岩泉村の地主たちは、需要が高まることを見越して、1876(明治9)年までに5~6頭を借り受け、短角種の系統が30頭くらいとなりました。
さらに、1877(明治10)年には勧農局が短角デボン系を民間に貸下げ、1883(明治16)年には短角牛や東北褐毛種(毛並みが褐色の肉用和牛)を強化しました。
米国から輸入された短角牛を貸与された小泉仙七の弟小泉伊兵衛は盛岡に分家し、市内で牛乳屋を営む傍ら搾乳牛も飼育し、1892(明治25)年には岩手県初となるホルスタイン種の雄雌2頭を導入しました。その後も代々畜牛改良に取り組みました。小泉仙七の子である市兵衛は東京の巣鴨や梅田(現、足立区梅田)に牧場を開設するとともに、以前から交流のあったウィンスタイン牧場(横浜市)から種牡牛を導入しました。写真4は現在でも居住されている小泉家の洋館で築100年をゆうに超えています。
小泉伊兵衛は、1882(明治15)年頃に盛岡で牛乳を販売し、1892(明治25)年には岩手県で初めてホルスタインの牡牝2頭を導入しています。また、葛巻の遠藤福一郎も東京や横浜からエアシャー、ホルスタイン、ジャージーなどの仔牛10数頭を購入し、江刈村の村木吉男も下総御料牧場からエアシャーの種牛を購入しました。この時期以降、各地からホルスタイン種牛の導入が行われ、岩泉は、東日本有数の乳牛資源供給産地となり、わが国における酪農生産の普及に重要な役割を果たすことになりました。大正期前半の記録によると、下閉伊郡には牛の市場が20箇所くらい設置され、年間、2~3千頭の牛が取引されるようになりました。
一方、小川村の山岸家は資産家で、畜産業を営んでいました。また、山岸家の分家にあたる山岸茂八は東京に出て山岸牧場を経営し、牛乳を販売していました。さらに、小泉市兵衛との共同出資でウィンスタイン牧場を購入しています。1910(明治43)年には静岡県賀茂郡松崎町の松崎牛乳社を借受け、牛の育成、牛乳や乳脂肪の製造を行いました。しかし、明治末期から大正にかけて牛の伝染病が蔓延し止む無く廃業するに至りました。写真5は現存する山岸家の住居跡で、曲家構造を認めることができます。
1907(明治40)年には、江刈村(現 葛巻町)の中崎部落が共同で小岩井農場から種牛を購入しました。1912(明治45)年には江刈村に三千中(みちなか)放牧組合(写真6)が設立され、1916(大正5)年に東京の大倉牧場や、1919(大正8)年に横浜の立花忠吉から種牛を購入しました。その結果、交雑牛は骨格、乳房とも和牛より優れていたため、1873(明治6)年頃からこの交雑牛に対する人気が上がりました。1895(明治28)年にはホルスタインが導入され、小岩井農場も1902(明治35)年にオランダ、スイス、イギリスよりブラウンスイス、エアシャー、ホルスタインを輸入し交配しましたが、明治期にブラウンスイスが、大正期にエアシャーが消え、ホルスタインのみが残りました。
1887(明治20)年には岩泉に産牛取引市場が開設され、1894(明治27)年に日清戦争が起きると軍用の肉牛需要や一般の国内消費も増えました。1898(明治31)年に盛岡に種馬厩 が開設され、1899(明治32)年には下閉伊 郡畜牛組合ができ、短角牛の生産販売が盛んになりました。「表3」には岩手県における牛の改良史を簡単にまとめました。
1907(明治40)年には、江刈村(現 葛巻町)の中崎部落が共同で小岩井農場から種牛を購入しました。1912(明治45)年には江刈村に三千中(みちなか)放牧組合(写真6)が設立され、1916(大正5)年に東京の大倉牧場や、1919(大正8)年に横浜の立花忠吉から種牛を購入しました。その結果、交雑牛は骨格、乳房とも和牛より優れていたため、1873(明治6)年頃からこの交雑牛に対する人気が上がりました。1895(明治28)年にはホルスタインが導入され、小岩井農場も1902(明治35)年にオランダ、スイス、イギリスよりブラウンスイス、エアシャー、ホルスタインを輸入し交配しましたが、明治期にブラウンスイスが、大正期にエアシャーが消え、ホルスタインのみが残りました。
1887(明治20)年には岩泉に産牛取引市場が開設され、1894(明治27)年に日清戦争が起きると軍用の肉牛需要や一般の国内消費も増えました。1898(明治31)年に盛岡に種馬厩 が開設され、1899(明治32)年には下閉伊 郡畜牛組合ができ、短角牛の生産販売が盛んになりました。「表3」には岩手県における牛の改良史を簡単にまとめました。
執筆者:堂迫俊一
大手乳業メーカーの研究所長を務め、定年退職後チーズプロフェッショナル協会の理事や副会長を担当し、現在は顧問です。その他、酪農乳業史研究会の常務理事および「ミルク一万年の会」の世話人として活動しています。さらに様々な酪農・乳業関係の活動をサポートしています。専門は乳たんぱく質の利用技術で、最先端の現代科学をもってしてもなお解明できない乳たんぱく質の構造や機能、さらには生命の神秘であるミルクの謎に挑戦すべくこの世界に飛び込みました。酪農乳業史に関する研究の経歴はまだわずかですが、近代酪農乳業の発展史を技術屋の視点で眺めてみたいと思っています。
大手乳業メーカーの研究所長を務め、定年退職後チーズプロフェッショナル協会の理事や副会長を担当し、現在は顧問です。その他、酪農乳業史研究会の常務理事および「ミルク一万年の会」の世話人として活動しています。さらに様々な酪農・乳業関係の活動をサポートしています。専門は乳たんぱく質の利用技術で、最先端の現代科学をもってしてもなお解明できない乳たんぱく質の構造や機能、さらには生命の神秘であるミルクの謎に挑戦すべくこの世界に飛び込みました。酪農乳業史に関する研究の経歴はまだわずかですが、近代酪農乳業の発展史を技術屋の視点で眺めてみたいと思っています。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]