【福岡編】
第2回 明治時代創業の小さな乳業会社“柳川牛乳”の物語 ~藤島豊太郎一代記~ その2

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第2回 明治時代創業の小さな乳業会社“柳川牛乳”の物語 ~藤島豊太郎一代記~ その2

福岡県南の水郷のまち、柳川市にある株式会社柳川牛乳(以下、柳川牛乳)。明治時代中頃、牛をつれて佐賀・小城からやってきた藤島豊太郎が創業した歴史ある乳業会社です。柳川で牛乳の製造販売を行い、柳川の発展にも尽くした藤島豊太郎の半生を、当時の世相とともにご紹介します。
  • 藤島牛乳搾取所と配達員(撮影年不詳)。
写真「藤島牛乳搾取所と配達員」は、柳川牛乳の古い写真です。奥の建物は牛舎と牛乳処理所で、手前に並んでいるのは、左から、配達のための台車、配達員の皆さんと自転車、飼われていた乳牛。台車のひとつには、恐らく「藤島牛乳」と書いてあり、また、蒸気殺菌のためと思われる煙突には「牛乳搾取所」、その上には藤島牛乳搾取所のロゴマークが書いてあるように見えます。
また、豊太郎が牛を飼っていた牛舎は、当時の御料牧場と同じ構造で通路にトロッコのレールがあり、牧夫は島原や天草地域、朝鮮の人だったとのこと。島原はいまでも酪農が盛んですので、牛飼いの技術を持つ人が多かったのかもしれません。

藤島牛乳搾取所の設立

柳川牛乳の創業者、藤島豊太郎は1872(明治5)年生まれ。佐賀県小城郡小城町(現・小城市小城町)から、牛をつれて福岡県山門郡柳河町(現・柳川市)に移り住み、藤島牛乳搾取所を設立しました。地元新聞の柳河新報によると、柳河にやってきたのは、1900(明治33)年の28歳のとき。柳河町を選んだ決め手は「お寺が多く、境内で草が採れたから」という理由だったようで、当時は同じように牛を飼い乳を搾る牧場が、周囲にいくつもあったそうです。
  • 株式会社柳川牛乳の創業者、藤島豊太郎と妻のチス(撮影年不詳)。
豊太郎は、柳河町に移住する前から着々と準備を重ねていたようで、柳川牛乳が倉庫として利用している当時の牛舎は1892(明治25)年、豊太郎が20歳の時に購入したものです。そのため、実際に藤島牛乳搾取所を設立して牛乳販売を始めたのは「明治25~33年のあいだ」と思われます。なお、その頃の佐賀県の搾乳業の状況をうかがい知ることのできる以下のような記述が、1932(昭和7)年10月に佐賀縣内務部農務課(現在の佐賀県庁)が発行した『佐賀縣畜産要覧』の5~6頁にありました。
搾乳業は明治十二年小城郡小城町松枝常訓氏在来の内國種を以て搾乳販売の業を開きたるを嘴矢とす、而して其の當時世間牛乳を用ゆるもの極めて稀にして僅かに醫師の勸誘により病者の用に供するに過ぎず。販路狭少なために収支相償はず、將に斯業を廃せんとせしも辛うじて継続せしに明治十六年に及び世人漸く牛乳の効能を認め、需要日に増加し供給不足の傾向を示せり。茲に至りて西山秀作、石井忠満、關海藏等奮いて東松浦郡地方より内國種を購ひ来り、乳舎を佐賀郡に卜し、盛んに搾乳せしも尚需要を満たす能はざるの盛況を呈せり。為に逐年斯業に従事するもの県下各地に続出せり。故に県、県農会は大に之を助成し雑種「エーアシャー」種等の飼養隆昌を来たせり。然れども搾乳牛としては主として福岡、長崎、熊本の諸県より移入を仰げり。 
この記述によると、佐賀県で搾乳業が始まったのは1879(明治12)年。小城郡小城町(現・小城市小城町)の松枝常訓が在来種で搾乳販売を行ったのがその始まりとのこと。当初はほとんど需要がなく経営も厳しかったようです。しかし、次第に需要が拡大したことで搾乳業に取り組む人が続出し、活況を呈したようです。
豊太郎は、佐賀県内で初めて搾乳業が行われた小城町から牛をつれて柳河町にやってきました。もしかしたら、松枝常訓から牛の飼い方、乳の搾り方、そして、乳の売り方など、搾乳業のノウハウを学び、父の藤島行蔵が亡くなられたのをきっかけに、商圏が重ならない柳河町を新たな起業の地に選んだのかもしれません。

なお、『佐賀縣統計書』(佐賀県庶務部 明治20年発行)に乳牛の頭数や搾乳量が記録されているのは、1883(明治16)年からです。その記録を見ると、佐賀県内の乳牛頭数は全部で26頭、うち佐賀郡赤松町ほか4か所に18頭、小城郡には2頭となっていますが、翌1884(明治17)年には、佐賀郡赤松町ほか4か所に41頭、小城郡4頭、全県で53頭に増加しています。7年後の1891(明治24)年には、佐賀県全体で140頭、佐賀市及び佐賀郡で78頭、小城郡で15頭、さらに10年後の1901(明治34)年には、佐賀県全体で323頭、佐賀市及び佐賀郡で116頭、小城郡で22頭になっています。このように、やはり牛乳需要のあった都市部、ここでは佐賀市周辺で乳牛頭数が急速に増加し、需要の少ない地方ではさほど乳牛頭数は増加しなかったことがわかります。

蒸気消毒器機を率先的に導入

豊太郎は、柳河町に移転した4年後、1903(明治36)年創刊の地元新聞『柳河新報』の1904(明治37)年3月10日7面に、牛乳の広告を出稿しています。 
  • 柳河新報 明治37年3月10日 7面
カタカナ書きの文語体で、しかも古い漢字で分かりづらいので、日本の歴史や食文化に詳しい日本経済大学 竹川克幸教授の協力を得て意訳してみました。
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牛乳広告
牛乳は人命保護の必要品であることは言うまでもありません。しかし牛乳中に菌毒を含むため牛乳により肺結核になる人も少なからずいらっしゃいます。欧米各国では種々研究の末、蒸気力で殺菌する方法を開発しました。その結果、大いに肺患いを減らしています。我国の都会(都市部)でも数年前から、蒸気殺菌の器械を用いて、販売を実施していますが、私たちの地方では蒸気消毒牛乳の販売者がまだおりません。私どもの店ではこのことに対し、大いに危惧を感じ、今般、率先して新型の蒸気消毒器械を導入し、今月から器械を設置し、蒸気消毒牛乳の販売を開始しております。前よりもまして、変わらぬご愛顧をいただきますよう、ひとえにお願いいたします。
御注意
最近、同業者も消毒の必要を感じていると言いながら、偽物の消毒牛乳を販売する者がいないとも限りませんので、よって、よくお確かめ頂きたいと切望します。

明治三十七年三月
山門郡柳河町大字隅町 牛乳搾取所  藤嶋豊太郎

各位様

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現在、消費者庁が所管する「乳及び乳製品の成分規格等に関する命令(昭和26年 厚生省令第52号)」において、牛乳の殺菌方法を「保持式により摂氏六三度で三〇分間加熱殺菌するか、又はこれと同等以上の殺菌効果を有する方法で加熱殺菌すること。」と定めていますが、この殺菌条件は、1933(昭和8)年10月に改正された牛乳営業取締規則(明治33年 内務省令第15号)から引き継がれたもので、結核菌を死滅させるためのものとされています。
それ以前の牛乳の殺菌(当時は、殺菌のことを「消毒」と呼んでいました)は、殺菌していない生乳を買ってそれぞれに自宅で沸かして飲む方法が明治の中頃まで続き、その後は、生乳をビンに詰めて栓をしてから蒸気で蒸してビンと牛乳が同時に殺菌され、温かいまま配達されるという方法が行われるようになりました。しかし、上記の「牛乳広告」にあるように、明治末期になっても、地方では「蒸気消毒」さえもまだ行われていなかったのではないかと考えられます。ここでいう「蒸気殺菌の機械」というのはどのようなものか想像がつきませんが、恐らくは、病院などで包帯などの消毒に使う大きな蒸し器のようなもので、殺菌温度については正確には管理されていなかったものと思われます。
なお、広告を見ると、当時の消費者は、牛乳に対し「栄養がある貴重なもの」と認識しつつ、「結核の原因にもなるもの」という不安を持っていたことがわかります。豊太郎はその不安を払拭し、信頼を得て販売を拡大するために「蒸気消毒牛乳」の広告を出稿したということでしょう。

また、同年8月10日の柳河新報2面に掲載された「夏時の牛乳」は、東京の某医学士が当時の牛乳業界の内情を明らかにし、特に衛生面に注意を払うよう警告を発したもの。編集部も東京だけでなく当地方(柳河)でも参考になるので掲載したとしています。
  • 柳河新報 明治37年8月10日 2面「夏時の牛乳」
文語体で分かりづらいので、こちらも日本経済大学 竹川克幸教授の協力を得て、内容を要約してみました。

● 牛乳販売者が自家産牛乳を無菌、消毒と称するのは、消費者に高く売りつけるための手段に過ぎない。
● 牛乳販売者は売れなかった牛乳からバターを作っているが、バターをつくった際に出る無脂肪乳を生乳に混ぜ、殺菌して牛乳と称して販売している。そのような牛乳は新鮮ではないし、栄養分も少ない。
● さらに、殺菌した牛乳の販売価格は高すぎる。
● そのため、衛生に多大な注意を払う外国人は、殺菌した牛乳ではなく、搾ったままの「生乳」を買い求めている。
● 衛生に特に気を付けなければならない夏が近づいており、牛乳を飲む際は、新鮮な生乳を買って自分で煮沸するのがよい。また、殺菌した牛乳を買い求めたときも、飲む前に煮沸することを怠ってはいけない。

牛乳やその処理、配達に関するコストと販売価格の差、さらにバターを製造した際に出る無脂肪乳の混入問題など、某医学士による告発は、読者に大きな衝撃を与えたのではないでしょうか。また、前出の「牛乳広告」にある「偽物の消毒牛乳」は、このような業界の慣行を踏まえたものなのかもしれません。
某医学士は記事のなかで生乳、消毒牛乳の煮沸を何度も説いています。冷蔵庫がなく、牛乳が腐りやすい時代、特に暑い夏場に安全に牛乳を飲むことが消費者の課題になっていたことがわかりますね。
【協 力
 株式会社柳川牛乳(福岡県柳川市隅町47)
 藤島家及び江村家の子孫の皆さま
 柳川古文書館(福岡県柳川市隅町71-2)
  https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/rekishibunka/shisetsu/komonjyo/
 日本経済大学経済学部経済学科 竹川克幸教授
  https://www.jue.ac.jp/professor_fukuoka/katsuyuki_takegawa/
 【参考文献】
 佐賀縣内務部農務課「佐賀縣畜産要覧」昭和7年10月発行
 (佐賀県立図書館所蔵)
 柳河新報(柳川古文書館所蔵)
  明治37年 3月10日 7面
        8月10日 2面
 株式会社柳川牛乳履歴事項全部証明書
 佐賀縣庶務部「佐賀縣統計書」明治20年発行
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:近藤裕隆
福岡県職員、牛乳パックコレクター、九州鶏すき学会主任研究員、和菓子研究者、
普及指導員として酪農家支援を行っていたころ、消費者が求める牛乳の姿を理解するために牛乳パックの収集を開始。平成17年の消費減退と乳価下げを受けて同僚と行う牛乳消費拡大活動のひとつとして、牛乳パックを紹介するブログ「愛しの牛乳パック」を開設しました。以来、「酪農・牛乳にかすればOK」という柔軟な編集方針のもと、酪農・牛乳関連情報の発信を続けています。とはいえ、毎日更新はタイヘンw

ブログ 愛しの牛乳パック   http://blog.livedoor.jp/ftmember/
    普及畜産チャンネル  http://blog.livedoor.jp/fukyuu/
    朝倉2号の楽しき日々 https://chspmomo2.yoka-yoka.jp/
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]