【京滋(京都・滋賀)地域編】第5回 京都府牧畜場を系譜とする松原牛乳の歩み

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コラム「にほんの酪農・歴史さんぽ」の『京滋地域編』をお送りします。
第5回は「京都府牧畜場を系譜とする松原牛乳の歩み」です。

第5回 京都府牧畜場を系譜とする松原牛乳の歩み

明治初期の京都の背景

1000年以上の長きにわたり天皇の住む都として栄えてきた京都は、公家や商人が多く住む都市でもありました。しかし明治時代になり都が東京にうつ ると、約34万人であった京都の人口は半減し地域産業は急速に衰退したため、着任した知事たちにとって、地域産業の立て直しが最も重要な仕事となりました。
まず、初代府知事の長谷信篤ながたにのぶあつ (1818~1902)は、租税免除の特典や産業基立金および勧業基立金などを活用して、様々な復興政策を実施しました。これらを引き継ぎ、積極的な京都の産業振興策に取り組んだのは、2代目府知事の槇村正直まきむらまさなお (1834~1896)でした。彼は旧長州藩士で議政官試補となり、明治政府の官僚として京都府に出仕し、遷都後の府政の中枢で活躍しました。
1871(明治4)年の調査によると、京都付近では山城一円で牛が4,713頭飼育されています。内訳は耕牛、小荷駄牛(兵糧食運搬)、運搬牛であり、食用にする牛は一頭もなく、乳牛はわずか3頭のみでした。「明治文化と明石博高翁」田中緑紅編(1942)によると「牛肉を食べれば顔が赤くなり、反対に牛乳を飲めば黒くなる」と信じられていたようです。槇村知事でさえ牛肉は食べたが牛乳は容易に飲まなかったと言われています。

京都府牧畜場の設立と経過

1871(明治4)年10月に京都府は、明石博高あかしひろあきら の発議により、当時の兵部省の練兵場であった牧畜用地(愛宕郡吉田村聖護院領・現在の京都大学医学部付属病院周辺)を勧業基立金により買い取って、官営の京都府牧畜場を設立しました。その内容を証すために牧場の一角(現在の稲盛財団記念館敷地内)に1941(昭和16)年に牧場記念碑が建立されています。
牧畜場における家畜の飼養頭数は1872(明治5)年、米牛(デボン種)34頭でありました。そして生産物は牛乳18.6石余、ボートル(バター)106斤余、ハヲトルミルク(粉乳)943匁余、コテンツミルク(煉乳)2斤余、テツキミルク(クリーム)1石余でありました。(近代京都における乳食文化の受容と菓子・橋爪伸子・食文化研究(2017))
さらに京都府は1872(明治5)年に「牛乳の効能並び用方」の令書を、1874(明治7)年に「牛乳の効能並び用方」を要約した「牛乳能書」を発行しています。
  • 京都府牧畜場「牛乳能書」週刊酪農乳業時報より
明治の初頭という極めて早い時期に、牛乳及乳製品を製造販売し、その栄養価値を徹底させ普及啓発をおこなった京都府牧畜場の取り組みは、東京に引けを取らない先進的なものでした。牧畜場は1874(明治7)年火災に遭遇しましたが、その後再生し1880(明治13)年迄に事業は順調に進展して多くの功績を残しました。しかし経営上の問題が発生して民間に払い下げて廃業してしまいました。

京都牧畜場松原直配所の誕生

1880(明治13)年、京都府牧畜場は、小牧仁兵衛、宅間多兵衛、岡野伝三郎に払い下げられました。そして「官立」を表す「府」の字を削除して「京都牧畜場」と改名しました。中心となった小牧仁兵衛は1861(文久元)年に市内河原町通りに生れ1883(明治16)年に牧畜業に専念して牧場経営にあたりました。(その後、宅間多兵衛・岡野伝三郎は辞退)
松原栄太郎は、小牧仁兵衛のもとで牛乳配達人を京都府牧畜場から通算15年間勤務しました。彼は1852(嘉永5)年、岐阜県稲葉郡南長森村に生れました。7歳のとき父を失い9歳のとき、母が行方不明となり伯母に育でられ18歳で独立しましたが、1873(明治6)年に京都へ移り、槇村正直府知事の車夫として働きました。さらに1876(明治9)年に京都府牧畜場の配達人に雇われ、五条以南を任されました。当初の配達量は一日9合という僅かな量でしたが、彼の努力により1879(明治12)年には配達販売量を8升に伸ばすことができました。
このような彼の商業的才覚もあって、小牧仁兵衛が経営する京都牧畜場は採算が取れるようになりました。1895(明治28)年に小牧仁兵衛は鉱山銀行に専念したため、搾取人、松原栄太郎、上田幸吉、佐賀久平、川崎嘉吉の4名に乳牛の運営管理を委任しましたが、経済不況と1897(明治30)年に流行した牛疫で破産してしまいました。
しかし、松原栄太郎は牛疫対策を懸命に講じ、経営悪化も乗り越え、小牧仁兵衛の意志を継ぎ歴史ある京都牧畜場を継承、1909(明治42)年に京都牧畜場松原搾取分場として独立しました。
  • 松原栄太郎(京都牧畜場事業一班より)
  • 京都牧畜場直配所(京都牧畜場事業一班より)
「京都牧畜場事業一班」(1914年)によると、搾取所(紀伊郡竹田街道砂川路西)が1911(明治44)年に乳牛飼育好適地として新設されています。敷地4,200坪の中に22棟の建築物を有し、畜舎の構造はアメリカ人技師ジョルジウイトンの設計の欧米様式でありました。場内には軽便鉄道のレールを敷き飼料を運搬するなど当時として群を抜く近代的な設備でした。
また、牛舎にパイプを架設して、コックを開閉すれば牛床を自動洗浄できるシステムを設置。飼育した乳牛の種類は、ホルスタイン、ブラウン・スイス、エアシャー、ジャジーで、乳牛は京都府の結核病検査を受けていたので常に健康でした。さらに牛乳は脂肪、比重を測定、また脂肪球が大きく色素が多いことを考慮し、バター製造用にはジャジー種の生乳を使用したといいます。
前述した「京都牧畜場事業一班…京都牧畜場松原直売所・1914」は、解説12頁、さらに牧場、牛舎、牛乳搾取舎、製造機械室、試験室など24枚の写真を用いて、当時最先端の設備を有している内容を英語のタイトルで紹介しています。
  • 京都牧畜場松原搾取分場(京都牧畜場事業一班より)
  • 仔牛の運動場(京都牧畜場事業一班より)
1940(昭和15)年6月には、昭和天皇が京都仙洞御所に滞在中に御料牛乳を献上しました。当時100頭飼育されていましたが、ホルスタイン・ジャジー種の中から11頭が選定され5日間で大膳寮に牛乳15升、クリーム1.7升、侍医寮に牛乳2升を献上し、大膳寮より御下賜金を受けました。
  • 御料牛乳の硝子壜と献上箱(写真提供:橋爪伸子)
さらに京都市内は勿論、関西一円に販売を拡大し1955(昭和30)年には松原牛乳株式会社と名称を変更して、一日に10石程度販売するなど牛乳事業に隆盛を極めました。
時代は定かでありませんが、製造品目は、松原牛乳、松原ダイヤ牛乳(加工乳)、特別濃厚牛乳(加工乳)、ホモゲ牛乳(乳飲料)、クリーム、ヨーグルトなど多岐にわたり製造販売されました。特に松原牛乳(75℃15分殺菌)の牛乳キャップは、2017(平成29)年頃、ネットオークションより1枚17,100円で取引されるなど、往時を偲ぶ貴重なキャップになっているようです。
松原栄太郎の家系は3系統にわかれています。直系は2代目松原榮三郎、3代目松原勝治(獣医師)、4代目松原利夫(獣医師)、5代目松原鈴子氏が社長を務めました。
京都府牧畜場の系譜をもつ初代松原栄太郎が独立してから、多くの事業を明治、大正、昭和、平成と展開しましたが、乳業施設再編合理化対策事業により2000(平成12)年には約90年の歴史を終え、全国農協直販(株)(現・雪印メグミルク(株))に譲渡併合しました。しかし、今でも「京の牛乳・松原」と語り継がれ偲ばれています。
なお現存する松原栄太郎の系譜をもつ会社は「たにじりや」です。「たにじりや」の初代谷尻理一は1914(大正3)年に広島から京都にきて近くの牧場(左京区太泰 世古牧場)から牛乳を取り寄せ牛乳処理販売業を始めました。松本栄太郎の甥で「たにじりや」に養子にはいったのが2代目谷尻豊で、事業を継承し、松原牛乳を取り扱い拡張しました。
3代目谷尻順一さんは、スーパー業界が登場し牛乳小売業の形態が大きく変わるなか、宅配事業に専念し「乳を通じて命をつなぎ、食を通じて人を育む、未来の子たちの笑顔のために」と言う経営理念のもとに、市内は勿論、郊外にも進出するなど事業拡大して現在も活躍しています。
 【参考文献】
 京都牧畜場事業一班 松原榮三郎 京都牧畜場松原直売所(1914)
 明治文化と明石博高翁 田中緑紅編 明石博高翁顕彰会(1942)
 近代京都における乳食文化の受容と菓子・橋爪伸子 食文化研究(2017)
 京都牧畜業の発展と経過の考察 矢澤好幸 酪農乳業史研究(16号)(2019)
 酪農乳業に貢献した人物史(8)矢澤好幸 乳業ジャーナル
 酪農乳業人国記(458)週刊酪農時報 農友社
 乳牛タイムス(NO237)乳牛タイムス社(1940)
執筆者:矢澤好幸
ミルク工場に長く勤め乳文化に興味をもつ。日本酪農乳業史研究会顧問。関連著書:乳の道しるべ(酪農事情社)・酪農乳業発達史(Jミルク)・近代日本の乳食文化(共著)[中央法規2019年]・東京ミルクものがたり(共著)[農文協2022年]
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]