第5回 箱根の開発と耕牧舎誕生

困難をきわめた仙石原の開墾

1880(明治13)年に渋沢栄一は、箱根・仙石原の広大な草原を牧場経営の適地と考え、江戸時代以来、村民共同の秣場(まぐさば)であり、既に神奈川県が牧畜試験地として買収していた約700ha余りの土地の払い下げを受け、牧場にした。三井物産の益田孝、東京株式取引所の小松彰、栄一の従兄である渋沢喜作とともに設立した、「耕牧舎」による牧畜開拓の始まりである。

 栄一の従弟である須永伝蔵を総支配人に松村泰次郎、新原敏三が牧場経営を始めた。新原敏三は、小説家・芥川龍之介の実父に当たる。

 この耕牧舎の所有地は、酸性の火山灰土のやせ地で、冷涼多雨の気象条件に冬季の厳しい寒気や強風により一面に萱が繁茂していた。そのため土地を開墾し、牧草の栽培をするため、力仕事に使う牛や馬を購入して耕し、収穫から脱穀、運搬や収納に使用する農機具を購入して、西欧式の家畜を活用した畜力農機具を酷使して大規模な開墾が行われた。

しかし、西欧式農法は、千葉の下総牧羊場で伝習を積んだ須永伝蔵や松村泰次郎でも経験がなく、従業員も不慣れなこともあり、大規模な開墾作業は困難をきわめ、開墾できた土地はわずかであった。

  • 「耕牧舎」は箱根・仙石原から芦ノ湖にかけての広大な土地で、現在はゴルフ場や分譲地

耕牧舎経営に一生を捧げた須永伝蔵

 須永伝蔵は、耕牧舎の総支配人として、牧草や乳牛の改良、牛乳販売も行い、牧場経営に一生を捧げた。そして仙石原の村民にも慕われ、村会議員のみならず村長にも推挙された。しかし、芦ノ湖からの引水による開田計画のため奔走した水利権紛争(逆川事件)では敗訴し、収監されている。この計画は、牧場経営の傍ら水田開発を行い、米で経営の安定化を図る遠大な構想でもあったが、当時の牧畜政策は大型牧場の経営を推進するためには多くの課題を抱えていたのである。

 伝蔵は、耕牧舎と仙石原村のために奔走したが、1904(明治37)年に病死。さらに、翌年には耕牧舎も、閉鎖を余儀なくされた。

 渋沢栄一は、伝蔵の牧畜事業の功績を称えて彼の故郷である群馬県成塚(明治39年)と、箱根仙石原(昭和6年)の2か所に伝蔵の石碑を建立した。当時が偲ばれる仙石原の石碑は、耕牧舎の跡地に現存している。

 この地に耕牧舎が誕生したことは、仙石原の村民にとってそれまでの箱根細工用に立木の伐採や搬出などを主とした生活から、季節的に集中する青草刈りや牧場における牛馬の管理など、新たな事業に雇用されたことで、村民にとって重要な収入源にもなり、村を豊かにすることができたのである。

乳牛改良と飼育状況

耕牧舎の開設から25年間(明治13~37年)で牛の飼養状況は、洋牛と和牛の合計で多い時には200頭以上にもなった。箱根町立郷土資料館々報第10号によると、最初から洋牛を基礎牛として事業を起こしており、明治政府の勧農局からショートホーン種(短角種)の牛2頭を借用し、1881(明治14)年にも短角種を再び借用、その後にデボン種(ハワイ産)も導入した。当時の輸入牛は乳肉兼用のショートホーン種及びデボン種が中心であり、耕牧舎では、優良な雄牛を種付け用の牛として、洋牛と雑種牛など和洋の牛を掛け合わせるなど交配改良し、雌牛を乳用牛として飼養した。そして、耕牧舎の各支店に乳用牛を移動させ、牛乳を搾乳販売したのである。同時に同業者をはじめ関係者に乳牛を貸与や売却もした。

 明治初期の輸入牛はジャージー種、ショートホーン種、デボン種、エアシャー種であった。ホルスタイン種については、「輸入種牛馬系統取調書」(農商務省農務局)によると、1885(明治18)年に、津田出が米国からホルスタイン種を導入したというのが定説となっている。しかし岩手県岩泉地方で飼育された岩泉牛の由来についての記録に「『ホルスタイン』種ノ輸入モ亦岩泉村ヲ以テ嚆矢ㇳス。」という記述がある。さらに「東京耕牧舎ヨリ『ホルスタイン』種牝牡2頭ヲ購入ス、該牛ハ明治17年渋沢栄一氏ガ米国ヨリ輸入セル和蘭産純血種ノ血統ナリト云フ。(原文)」と書かれており、とすると渋沢栄一は津田出より1年早くホルスタイン種を輸入したことになる。

牛乳事業の概況

当時、箱根へは、幕末から外国人居留地のあった横浜などから、豊富な温泉と富士山の景観を求めて避暑に訪れる外国人が多く、耕牧舎は積極的な牛乳の製造販売を行った。

 明治14年にはバターも製造販売した。その証拠として勧農局よりバターチャーンを購入している。明治14年の1,358㎏から逐次伸び、明治20年には3,422㎏と倍になっている。ただし、明治22年の7,030㎏をピークに、その後は次第に減少している。

 明治20年には箱根・宮ノ下まで道ができ、さらに東海道線や小田原馬車鉄道の開設により多くの顧客から牛乳の需要が高まった。明治23年には富士屋ホテルからの支援を受け、宮ノ下支店を設けて雌牛5頭を飼育して牛乳を販売した。このように牛乳販売が伸びた理由は、外国人をはじめ、上流階級の多くの人が季節によって箱根を訪れ保養地として滞在したことであった。

 当時珍しい箱根にあった入浴用の牛乳についても、中外物価新報(第521号、明治15年)に、「避暑入浴の御方牛乳御入用の節は」と、牧場から牛乳を届ける旨の広告がある。また須永伝蔵からの栄一あての書翰(明治16年)には「当時井上勝之助様湯本ヘ御入浴ニ付日々牛乳相送り居申候」と記述がある。入浴用の牛乳を販売したのは耕牧舎が我が国で初めてあった。これは温泉療法の研究に度々きて、指導的役割を果たしたエルヴィン・フォン・ベルツ(ドイツ人、東京医学校教師)の影響によるものである。

 耕牧舎は、支舎(店)を東京、神奈川、山梨、静岡などに設けた。当時は生乳を運搬する手段がなかったので、仙石原の牧場は乳牛の育成に専念し、乳牛を各支店に移動させた。そして各支店が牛乳を搾乳・販売した。このように渋沢栄一は営業主流の経営方針による都市商圏における利益率の高い牛乳販売に力点を絞ったものと思われる。

 

:総数(牛と馬の合計数(33・34・35))
出典:箱根町立郷土資料館 館報第10号(1994) 

執筆者:矢澤好幸・日本酪農乳業史研究会 会長

● 引用文献

「殖産事業として渋沢栄一が導入した大型牧場の研究」 矢澤好幸 酪農乳業史研究(6)(2012)
「山間村落の黎明」 鈴木康弘 箱根町立郷土資料館 館報第10号(1994)
「農務彙纂第69 和牛ニ関スル調査」 農商務省農務局(1917)
「耕牧舎関係資料(1)」箱根町立郷土資料館 館報第16号(2000)
「渋沢栄一伝記資料」(第15巻) 渋沢栄一伝記資料刊行会(1957)

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