第7回 芥川龍之介の文学と耕牧舎
芥川龍之介の生い立ち
芥川龍之介は、1892(明治25)年3月1日に東京市京橋区入船町(現・東京都中央区明石町、聖路加国際病院周辺)に、新原敏三とフクの長男として生まれた。
新原敏三は、現在の山口県出身で、当時は外国人居留地であった入船町で牛乳搾取業として耕牧舎を営み、新宿にも牧場を持っていた。
龍之介は、生後8ヵ月ごろに、母であるフクの病が悪化したことで、実兄に当たる芥川道章の家に預けられ、母の姉にあたるフキに育てられた。芥川家は代々、徳川家のお数寄屋坊主(すきやぼうず=若年寄の支配に属し茶礼を司る)を務めた旧家であった。そのため江戸文人の趣味が濃かったといわれている。
道章は、当時、東京府土木課に勤めていた。1893(明治26)年に実父の新原敏三は、当時の芝区新銭座町に耕牧舎を移転したが、龍之介は本所区(現・墨田区)にある芥川家から幼稚園に通っていた。1902(明治35)年に実母のフクは死亡。1904(明治37)年に芥川家の養子となった。
江東尋常小学校、府立第三中学校,第一高等学校を経て東京帝国大学英文科に入学。優秀な成績をおさめ卒業し、多くの小説を世に送り芥川文学の功績を残した。実父が経営していた耕牧舎の成功を誇りに思っていたことや、母乳を飲めず牛乳で育ったことなども龍之介の作品なかにも書かれている。
新原敏三は、現在の山口県出身で、当時は外国人居留地であった入船町で牛乳搾取業として耕牧舎を営み、新宿にも牧場を持っていた。
龍之介は、生後8ヵ月ごろに、母であるフクの病が悪化したことで、実兄に当たる芥川道章の家に預けられ、母の姉にあたるフキに育てられた。芥川家は代々、徳川家のお数寄屋坊主(すきやぼうず=若年寄の支配に属し茶礼を司る)を務めた旧家であった。そのため江戸文人の趣味が濃かったといわれている。
道章は、当時、東京府土木課に勤めていた。1893(明治26)年に実父の新原敏三は、当時の芝区新銭座町に耕牧舎を移転したが、龍之介は本所区(現・墨田区)にある芥川家から幼稚園に通っていた。1902(明治35)年に実母のフクは死亡。1904(明治37)年に芥川家の養子となった。
江東尋常小学校、府立第三中学校,第一高等学校を経て東京帝国大学英文科に入学。優秀な成績をおさめ卒業し、多くの小説を世に送り芥川文学の功績を残した。実父が経営していた耕牧舎の成功を誇りに思っていたことや、母乳を飲めず牛乳で育ったことなども龍之介の作品なかにも書かれている。
新原敏三を扱った「大導寺信輔の半生」
芥川文学作品に父である新原敏三を扱った作品には「大導寺信輔の半生」(1925=大正14年)がある。これは芥川の自伝的なものであるといっても相当フィクションであるといわれている。
本の章立ては、①本所、②牛乳、③貧困、④学校、⑤本、⑥友だち。生まれ育った現在の墨田区に位置する本所の情景から始まっている。「牛乳」の章に、次のような記述がある。
「信輔は、全然母の乳を吸ったことのない少年であった。元来体の弱かった母は一粒種の彼を産んだ後さえ、一滴の乳も与えなかった。(中略)彼はその為に生まれ落ちた時から牛乳を飲んで育って来た。それは当時の信輔には憎まずにはいられぬ運命だった。彼は毎朝台所へ来る牛乳の壜を軽蔑した。又何を知らぬにもせよ、母の乳だけは知っている彼の友だちを羨望した。(中略)信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥じた。これは彼の秘密だった。誰にも決して知らせることの出来ぬ彼の一生の秘密だった。この秘密は又当時の彼には或迷信をも伴っていた。彼は只頭ばかり大きい、無気味なほど痩せた少年だった。(中略)信輔は中学へはいった春、年とった彼の叔父といっしょに、当時叔父が経営していた牧場へ行ったことを覚えている。殊にやっと柵の上へ制服の胸をのしかけたまま、目の前へ歩み寄った白牛に干し草をやったことを覚えている。牛は彼の顔を見上げながら、静かに干し草へ鼻を出した。彼はその顔を眺めた時、ふとこの牛の瞳の中に何にか人間に近いものを感じた。空想?——(後略)」
新原家3人をテーマにした「点鬼簿」
芥川文学作品に「点鬼簿」(てんきぼ)(1926=大正16年)がある。点鬼簿とは過去帳のこと。この小説の内容は、実の両親である新原敏三・フク、姉であるハツと、3人の死がテーマになっている。第一部は自分の母の死と向き合った年少の自分、第二部は自分が生まれる前に夭折(ようせつ)した姉について、第三部では自分と父の関係について描かれている。その中で、次のように書かれている。
「僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新らしかった果物や飲料を教えたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアップル、ラム酒、(中略)僕は当時新宿にあった牧場の外の槲の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えている。」
この作品は、龍之介が精神疾患をはじめとする身体の不調に悩んでいる頃に書かれたもので自叙伝風の作品といわれている。
未定稿集に書かれた耕牧舎の広告文案
『芥川龍之介未定稿集』によると、耕牧舎の広告チラシ「引札」の文案として、「①(創立)弊舎が、箱根仙石原に牧場を創設せしは、実に明治8年なり、以て如何に、耕牧舎が牛乳界の先進たりかを知るに足らん。②(現状)弊舎は200頭余頭の優良なる畜牛を有し、且各所に支店を設置し、最新式蒸気消毒法を以て最も完全なる殺菌牛乳、③バター亙精製販売しつつあり以て如何に、耕牧舎が牛乳界の霸王たるかを知るに足らん。④(名誉)弊舎は勧業博覧会、共進会、品評会等に於いて、優功賞を受領せるのみならず、現に宮内省、各皇族を始め、朝野の貴顕紳士、陸海軍諸学校、各病院、帝国ホテル、精養軒等の御高命を仰ぎつつあり、以て如何に、耕牧舎が牛乳界の権威たるかを知るに足らん」と引札に原案が記されています。さらに、「不老長生は過去数世紀に亙りて、人間の求めて得ざりし所なれど、今世紀に及びエリアス・メチニコフ博士のヨーグルト研究成リ…(後略)…」とはじまるヨーグルトの広告文案(原案)もあります。このように実父が経営する耕牧舎のPR事業にも携わっていたのです。
執筆者:矢澤好幸・日本酪農乳業史研究会 会長
● 参考文献
『芥川龍之介 新潮日本文学10』芥川龍之介、新潮社(1986)
『芥川龍之介未定稿集』葛巻義敏編、岩波書店(1968)
『芥川龍之介』森啓祐、櫻楓社(1974)
『芥川龍之介以前・本是山中人』沖本常吉、東洋図書出版(1977)
『芥川龍之介 新潮日本文学10』芥川龍之介、新潮社(1986)
『芥川龍之介未定稿集』葛巻義敏編、岩波書店(1968)
『芥川龍之介』森啓祐、櫻楓社(1974)
『芥川龍之介以前・本是山中人』沖本常吉、東洋図書出版(1977)
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