【北海道・十勝編】第4回 牛乳山に響いたカウベル ~新得~

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23万頭の乳牛から日々搾られる新鮮な牛乳が、チーズやヨーグルトに加工されて日本中の食卓へ─。
北海道の十勝地方は、酪農の一大生産地ですが、酪農はどのようにこの地域にやって来て、根づいたのでしょうか?風景のなかの痕跡や先人達のことばから、その歴史に迫ります。

第4回 牛乳山に響いたカウベル ~新得~

十勝の西端、新得には「牛乳山」と呼ばれる山があります。山麓で乳牛が放牧され、昭和初期にはバターも生産されました。水が良いことからバターの品質が良く、他の道内産より高値で取引されたそうです。かつてカウベルが響いていた山のふもとでは現在、ナチュラルチーズが人気の共働学舎新得農場のブラウンスイス種の牛たちが草を食んでいます。

先駆者の記念碑

新得での酪農のはじまりは、1907(明治40)年に小樽の飼料・肥料販売業者、丹波屋の牧場が開設され、山内かなめが経営したことに始まります。丹波屋は販売拡大のために直営牧場を開き、支援していました。翌年からは、美瑛の旭農場経営者の小林直三郎の指導により、ホルスタイン雄雌と、エアシャー系雄1頭を導入、明治末からは丹波屋から牧場を譲り受けた山内が、移住者の太田倉之助とともに牧場経営にあたりました。1914(大正3)年には放牧地285町歩、牛25頭、馬5頭を飼育するまでになっていました。
桜で有名な新得神社のすぐそば、大師堂のわきにある「山内要君之碑」は、同志だった太田らが建てたものです。石碑には「昭和四年、新得酪農組合、新得村民有志」の文字があります。1929(昭和4)年といえば、世界恐慌の年。翌年には農産物価格の暴落に見舞われることになります。先駆者である友に呼びかける「君」という敬称に、心を打たれます。
かつて拓殖鉄道の駅があった屈足くったり市街の公園に、昭和27年から30年ごろ建てられたという「酪農感謝の碑」がありました。揮毫きごうは、雪印乳業初代社長の佐藤みつぎ。当時の屈足酪農振興会が50-60戸からの寄付を集めて建てたものだそうです。
豊かでなかった時代に酪農家が自ら建てた石碑に添えられた言葉は多くないですが、物言わぬ牛への感謝がこめられています。
  • 1908(明治41)年、ホルスタイン雌雄各1頭とエアシャー系雄牛を購入して酪農を始めた先駆者を称えた碑。桜で知られる新得神社の近くにある
  • 地域で寄付を募り各地に建立された乳牛感謝碑。頭数増加に伴って増えた淘汰される牛たちへの供養と祈りが込められた

牛飼い校長と酪農家の給食

「おら(湯浅)貢さんとこへでめんとりに行って初めて牛の乳のませられて、うまかったな。その時もうちょっとついでくれればいいなあと思ったってついでくれんさ(一同笑う)」
1920(大正9)年に上佐幌小5年生だった和賀千蔵さんは、初めて牛乳を飲んだときの思い出を、後の座談会で語っています。「でめんとり」は日雇いの農作業アルバイト。何歳の時の出来事かはわかりませんが、農作業の合間に飲んだ牛乳はきっと身体に染み渡るおいしさだったことでしょう。
隣の清水に日甜清水製糖工場ができると、補助金で乳牛を入れる人が佐幌の高台にも増えました。1919(大正8)年に佐幌小学校の校長だった佐藤留治もそのひとりで、子どもたちの体位向上のためにエアシャー種1頭を購入し、牛乳を搾って児童に飲ませたそうです。昭和初期の凶作の年には上佐幌の酪農家加藤吉五郎らがイモと牛乳の献立を子どもたちに提供しました。いずれの小学校も既に閉校になっています。
乳牛が十勝に普及し始めた大正後期から昭和にかけては、第一次大戦のもたらした好景気のあと農産物価格が下落、冷害・凶作が続いた「北海道近代史のどん底の時代」(関秀志・北海道史研究協議会副会長)でした。乳牛は、年間通じて牛乳代という現金収入をもたらします。官による酪農振興は、困窮する農村救済政策でもありましたが、農閑期の冬に農家の男性が山で木を伐り出す造材仕事に出ることは、酪農による収入が安定する戦後まで続きました。
  • 昭和10年代の農家。増え始めたホルスタインとともに、農作業に欠かせなかった馬の姿がある 「目で見る八十年 しんとく」(1979)より
  • 集乳所の様子(撮影年不明)。1941(昭和16)年には新得町内で300戸の農家が乳牛800頭を飼養、牛乳生産量は7千石(1260トン)だった 「目で見る八十年 しんとく」(1979)より

牛乳山の放牧牛

1921(大正10)年頃、新得のまちに美瑛の旭農場の支場が開かれます。富山出身で丹波屋の営業マンだった松本政則が牧場支配人になり、丹波屋牧場の牛乳を引き受けて、バター製造を始めます。昭和の終わり頃に開かれた座談会で、牛乳を搾り始めた当時について「神社の松本さんまで3人交替で、背負って行ったものさ」との語りが記録されています。
農林省の乳製品製造者の報告書を見ると、昭和2年に5400ポンド(=2.4トン)、昭和9年に6632ポンド(=約3トン)を製造、関東や道内で販売されたとあります。バター製造は手回しから後にドラム缶2本程の大型の電動となり、新得では初のモーター導入の事例となったとか。脱脂乳は、伊藤伝五郎養豚場に只同然で売られ、飼料に混ぜて給与されたといいます。
地域酪農の沿革史に、当時放牧に使われたという、カウベルの写真がありました。「ボス牛につけたつり鐘 1878年 アメリカ製」。刻印には、山岳酪農の盛んなスイスの地名がありました。
それから40年余りがたった1978(昭和53)年、米国留学から帰国した宮嶋望さんは、町営牧場となっていた牛乳山の南斜面に共働学舎新得農場を開きます。80年代、生産調整で出荷を増やせない牛乳に付加価値を、とナチュラルチーズ作りを始めた宮嶋さんに、町は特産品開発センターとして農場内に工房を建設して運営を任せます。フランスから専門家を招き、地域の生産者と切磋琢磨して技術を磨いたチーズは2004年(平成16)にスイスで開かれた国際コンクールで金メダルを受賞。農場で技術を学んだ若者たちは独立して全国各地でチーズ工房を開き、国産チーズの評価を高めています。
  • 現在の美瑛にあった旭農場主、ブリーダーの小林直三郎は、依田勉三らにも技術を伝えた十勝酪農黎明期の恩人と言える。旭農場新得支場長の松本政則はバターも製造、放牧地は牛乳山と呼ばれた「酪農の道 新得酪農振興会20年史」(1993)より

復活した軟石サイロ

昭和10年代、サイロは先進酪農家の夢だった──と先人は語っています。新得町内にある北海道立畜産試験場では、1931(昭和6)年に札幌・真駒内の北海道庁種畜場で、場内の軟石を切り出して建設された第五牛舎附属サイロを見ることができます。高さ15メートル、内径5.5メートルで、容量は282立方メートルあり、建設された当時は「東洋一大きい」と言われたそうです。
1945(昭和20)年の敗戦時、種畜場施設は進駐米軍に接収され、サイロも解体を命じられます。戦後、新得に畜産試験場として移転された際、解体された730個の軟石を運んでサイロが復元されました。1987(昭和62)年、試験牛舎が使われなくなってにお役御免になるまで、56年の長きにわたって使われたこと、また悲惨な時代をしのばせる唯一の施設として、畜産試験場の前庭に保存展示されました。
種畜場時代に一度破裂し、ワイヤーで補強した痕跡が軟石に残っています。何度もよみがえった、不屈のサイロは、モノの乏しかった時代のひとびとの忍耐強さを後世に伝え続けることでしょう。
  • 巨大な軟石サイロは、札幌と新得で半世紀以上使用された。
    近づくと、かつて破裂してワイヤーで締めた跡が確認できる

【換算】牛乳、バター等を計量する場合
石(こく)=186.164キログラム   ポンド=英斤=453.6グラム


(一部敬称略)
 【文献】
「新得町史」1955
「酪農の道 新得酪農振興会20年史」1993
「上佐幌小学校開校70周年記念誌」1978
「目で見る八十年 しんとく」1979
新得町郷土史研究会「開拓の足跡」1991
野呂己之松「しんとくの史跡」1994
関秀志「北海道改革の素朴な疑問を関先生に聞いてみた」2020
宮嶋望「みんな、神様をつれてやってきた」2008
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]