【北海道・十勝編】第6回 鉄道で運ばれた牛乳 ~鹿追・清水~

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23万頭の乳牛から日々搾られる新鮮な牛乳が、チーズやヨーグルトに加工されて日本中の食卓へ─。
北海道の十勝地方は、酪農の一大生産地ですが、酪農はどのようにこの地域にやって来て、根づいたのでしょうか?風景のなかの痕跡や先人達のことばから、その歴史に迫ります。

第6回 鉄道で運ばれた牛乳 ~鹿追・清水~

大正時代の最後の3年間に補助事業によって牝牛が最も多く入ったのが、清水の隣の鹿追でした。製糖会社は、収穫された原料のビート(甜菜)を畑から工場に運搬するため、軽便けいべん鉄道を敷きました。製糖工場が地域に乳牛と鉄道をもたらし、戦後は集約酪農地域に指定されて、地域の主産業に成長します。

駅は林のなかに

トラック輸送が普及し、1967(昭和42)年に北海道協同乳業(現・よつ葉乳業)が設立されるまで、鹿追の牛乳は、鉄道で清水の工場まで運ばれていました。郷土の歴史に詳しい東瓜幕出身の高橋行夫さんの案内で、かつて沿線の農家が牛乳を出荷した軽便・河西鉄道の線路跡へ。市街地から落葉松林の中の道をたどると、石造りのプラットフォームが残っていました。線路は残っていませんが、鹿追駅には引き込み線の先に機関庫があったそうです。
清水の製糖工場を基点に熊牛の南北、鹿追へと軌道総延長52.8キロ。ビートだけでなく、材木、牛乳などの農産物、新聞、郵便物、客車にはまちに出る乗客を載せて、毎日2往復。1936年に出た『明治製糖三十年史』によると、旅客は年間2万6千人余、貨物3万8千トンを運搬したそうです。
昭和に入り、1928(昭和3)年には新得から鹿追を通って上士幌へと向かう拓殖鉄道も完成し、瓜幕のひとびとの搾った牛乳も、新得を経由して清水の工場へと運ばれました。それ以前は、馬による輸送拠点・駅逓えきてい前で集乳し、馬車で清水まで運んだそうです。
河西鉄道は1951(昭和26)年、拓殖鉄道は1961(昭和36)年、いずれも建設から約30年で旅客輸送の役割を終えます。この間の乳業の再編はめまぐるしく、明治、極東煉乳、酪連、興農公社、戦争を挟んで、北海道酪農協同、クロバー乳業、雪印乳業と清水にあった工場の名前は何度も変わりました。農家は一貫して、日々搾った牛乳を駅へと運び続けて来たのでした。
  • 木材や農産物、牛乳が積まれた貨車。1942(昭和17)年頃、地域で運送業に従事した女性によると、約30キロの牛乳缶を50~60本、集乳所からリヤカーで駅へ運び、持ち上げて貨車に積み込むのは大変な重労働だった
  • 河西鉄道鹿追駅跡。1921(大正10)年からビート(甜菜)を運ぶため、製糖工場と鹿追の畑を結んで敷設され、牛乳も運ばれた
  • 1928(昭和3)年に開業した北海道拓殖鉄道のマーク。
    駅の周辺に人家や店が集まり、町が出来た

牛には「手豆」を食わせろ

昔は「牛に食わせるのはエサも大切だが、手豆を食わせろ」と言われたそうです。つまり手間を惜しむな、ということ。鹿追発祥の地である下鹿追で、戦前に乳牛を飼った奥田サキさんは、冬期間は冷水でなく、風呂で沸かして湯を与え、配合飼料もなかったのでくず豆、くずいも、ひえ、燕麦などを家の中のストーブで煮て与えていたと語りました。
放牧はあまりせず、鉄棒とロープ、鎖などで「繋牧」けいぼく、日に何度もつなぎ変える必要がありました。搾った生乳を軽便鉄道の停車場や集乳所へ持ち込むまでの冷却もたいへん。鹿追町教育委員長を務めた高野保昌さんの随筆に、当時の苦労が記されていました。

「かつて私も三〇キロの乳送かんをロープで四罐も井戸に釣り下げ、女房に手伝って貰って上げ降ろしした経験を持っている。私の井戸は浅く水まで十尺(=約3メートル)伝い、それでもうつむいて二本の腕で替るがわる釣り上げる仕事は、他の重工業では見られない原始的な苦しさだ。けれども井戸以外に水のない私の家では二十数年これを続けて来た。(中略)汲み上げの水は半日毎に取り替えねば二等乳(二等乳の価は七掛けにしか売れない)に落ちる」

鹿追町の郷土資料保存館には、冷却用の細長い「冷し缶」があります。水中で缶の落ち着きが悪くて水が入る、冬は凍ってシャーベットになる、中には川で冷やしていて熊に缶を開けられたとの逸話も残っています。生乳の冷蔵と共同販売の拠点として、鹿追市街に念願のコールドセンターが建ったのは、集約酪農地域指定後の1964(昭和39)年のことでした。
  • 冷却と共同販売の拠点として1964年に建設されたミルクセンター。バルククーラーの普及で役割を終えた
  • 冷し缶とも呼ばれた冷却用の缶。鮮度を保つため、出荷までは井戸や付近の小川、明渠に杭を打ってしばりつけて固定した(鹿追町図書館提供)

集乳のリアル

町の郷土資料室に展示された木製の背負子しょいこには、輸送缶をのせた丸い跡がありました。輸送缶一本分を出荷していた頃、背負子で背中に担ぎ駅まで運んだそうです。「雪解けの3月、ぬかるんで自転車やリヤカーが使えない時にも使われた」と高橋さん。夏は自転車で、やがて輸送缶が2本になると、両側に振り分ける太いタイヤの専用自転車が販売されました。牛乳用のファットバイクがあったとは!
子どもが高学年になると、通学時に運ばせることが多かったそうです。冬になるとそり、馬橇が使われたとのこと、寒い中、毎日馬を仕立てる苦労がしのばれます。行きだけではなく、仔牛に飲ませる脱脂乳入りの缶を取りに行くのも日課でした。雪が深かったり固まってでこぼこになったりして、転倒させてしまい、「白い雪に牛乳を吸わせることも度々あった」。酪農家が増えるにつれて、当番制で何日かに一度で済むようになります。
昭和のはじめ、上幌内小学校の仁井旭校長が乳牛を購入、校長を辞して酪農会社を設立します。15戸が参加して手回しのセパレーターを購入して、クリームを清水に出荷したそうです。共同で運ぶグループへの助成金をたくわえ、農村の電化の資金にしたところもあるとか。酪農家が過酷な時期を結束して乗り越えて来たことがわかります。
  • 牛乳缶を載せる板が取り付けられた背負子(鹿追町郷土資料館所蔵)
  • 各農家の番号が振られた牛乳缶(輸送缶)。朝牛乳を入れて出し、夕方に空の缶を取りに持ち帰った (鹿追町郷土資料館所蔵)
  • このようにして背中に担いで牛乳を運んだ。「佐幌小学校80周年記念 さほろ」(1986)より

明糖の製酪工場

膝の間に挟んだバケツに手搾りで貯めて牛乳缶に移して駅へと運ばれた牛乳は、どのように乳製品に加工されていたのでしょうか?清水町郷土資料館に展示されていた、古い地方新聞に当時の様子がありました。
1937(昭和12)年4月3日付、「十勝新報」の特集記事です。明治製糖は畜産振興のために、清水工場の一部で製酪を始め、昭和3年9月には明治製菓の清水製乳工場となり、建物と設備を改造してバターを製造。乳量の増加に従い、煉乳の製造も始め、昭和7年には一部3階建ての工場本館150坪、その他設備と合わせ350坪に拡張し、年中不休で製造。50人余りの男女工を雇い、昭和10年度の一日の集乳量は75石(=約14トン)に達している──と生産が順調に伸びていたのがわかります。
この工場は、現在「十勝」ブランドの乳製品ラインナップを展開する明治の拠点となりました。1931(昭和6)年からの5年で、生産量は、煉乳98,300ポンド(=約45トン)から2,151,324斤(=約976トン)、牛酪(バター)は63,368ポンド(=約28.8トン)から107,318斤(=約48.7トン)と大きく増え、1933(昭和8)年からは脱脂煉乳も製造されました。農林省の調査報告書によれば、1935(昭和10)年当時の清水工場の製品はバターのほか、自動車印の加糖煉乳、鳩印の脱脂煉乳でした。
  • 乳牛を飼う人が増え、製酪工場の生産も拡大した(清水町教委提供)

【換算】牛乳、バター等を計量する場合
石(こく)=186.164キログラム   ポンド=英斤=453.6グラム


(一部敬称略)
 【文献】
畜産彙纂第86号 農林省畜産局「本邦二於ケル乳製品及肉製品」
鹿追町酪農振興会「酪農のあゆみ 鹿追町酪農振興会 創立二十周年記念誌」1980
「鹿追町史」1978
「佐幌小学校80周年記念誌 さほろ」1986
「鹿追町七十年史」1994
高橋行夫「文明開化の花形・鉄道の歴史」2002
「明治製糖株式会社三十年史」1936
「明治グループ100年史」2017
執筆者:小林志歩
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]