【北海道・十勝編】第8回 この地で新たに ~帯広・中札内・清水~

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23万頭の乳牛から日々搾られる新鮮な牛乳が、チーズやヨーグルトに加工されて日本中の食卓へ─。
北海道の十勝地方は、酪農の一大生産地ですが、酪農はどのようにこの地域にやって来て、根づいたのでしょうか?風景のなかの痕跡や先人達のことばから、その歴史に迫ります。

第8回 この地で新たに ~帯広・中札内・清水~

敗戦の混乱期、戦災者や海外からの引揚者の受け皿となった北海道。食糧不足と冷害に苦しむ農家に、貸付牛が希望をもたらします。やがて、集約酪農地域指定を受けた町村を中心に、機械化・大規模化の時代が幕を開けました。

めんこい子牛

「下宿先の東京から地元の十勝へ帰る道中、ひとびとが食べ物に困っているのを目にした。牛乳を飲ませられたらいいんじゃないか、と思いついてね」。帯広市の廣瀬博昭さんは、終戦後まもなく乳牛を飼い始めたきっかけをこう語りました。
父親に伝えると「馬ならいいが、牛なんかに金出さん」。そんな時、耳にしたのが貸付牛の制度でした。当時北海道庁は、6か月の子牛を貸し付け、最初に生まれた雌牛を育てて半年後に返還すれば、はじめの牛が自分のものになるとの条件で、乳牛を普及していました。
「子牛を放していて、自分が来ると喜んでこっちへ帰ってくる。めんこくて、なでたりして。結局その牛が手放せなくて、よそから牛を買って来て返した。この可愛がった牛はよく乳が出た。親牛も10年くらい長生きしたなあ」。新婚当時は、牛の両サイドに腰掛けて向かい合って乳搾りをしたそうですよ!
夏は自転車、冬は馬橇で牛乳を運びましたが、ほどなく農協のトラックが国道まで取りに来るようになり、需要の高まりを受けて乳業会社の集乳が始まります。牛乳代が株で支払われ、当時株が何かもよく知らないまま「持っていると高くなる」と言われたのが現実になり、1957(昭和32)年に株の収益で牛舎を建設。高度経済成長の時代が始まっていました。

戦後開拓と離農

1948(昭和23)年、親に連れられて東京から帯広に移り住んだとき、伊沢佐恵子さんは小学5年生でした。樺太からの引揚者が多く入植した戦後開拓集落の帯広市拓成町。ほどなく、この地域は畑作に不向きだから酪農に切り替えるとのことで、貸付牛がやって来ます。「7、8頭の牛を飼えば、楽に暮らして行ける」との話でした。
種付けに連れて行くこと5回、めでたく子牛が誕生。伊沢さんは姉とふたりで搾乳の仕方を教わり、農業改良普及員の指導でサイレージをつくります。1960(昭和35)年に結婚して農場を継ぎ、子どもが小学校に上がる頃には牛は20頭に増え、数台のミルカーで搾乳するようになっていました。当時の思いを母親文集に綴っています。

「よく“はつかねずみ”のように、といいますが、私たちの搾乳風景は、“皿回し”のような、といった方がぴったりだと思うのです。(中略)二台から三台のミルカーを一度に使って進めていくのだから大変です。一方で、乳房を拭いているうちに、他方でミルカーがエアーを吸い込んではずれそうになる。そっちへ走れば、また、他方でミルカーの付けすぎになる。(中略)乳価は安い、諸経費は高い、ということでは、いやがおうでも多頭化の波に押し流されてしまう。(中略)ミルカーをひとりで巧みにあやつっているように見えるけれど、実際は、何者かに巧みにあやつられていると言わざるを得ない。…」

1989(平成元)年、伊沢牧場の牛は80頭に増え、搾乳牛一頭あたりの平均乳量9,300キロで乳牛検定組合から優秀賞をもらいます。30戸あまりあった農家は5戸になっていました。家族で切り開いた土地を後にする人を何度も見送りました。
 夫を亡くし、1970年代に離農した清水町のある女性は、後に当時の状況を振り返って記しました。「国の方針で農業構造改善事業が進められ、大型農機具を入れるか、また小さい農業でやって行くのか、選択をしなければならない時が来ました。住宅も立て替えの時期に来ており、又、牛舎も狭くなっていましたので、父母とも毎晩のように話し合いました。長男も農業を続けるつもりで酪農科に入学させたのですが、大きな借金をしてまで農業をするのは大変だという事で離農することに決めました」。
ぽつんと佇むサイロの数だけ、それぞれの事情と選択がありました。
  • 清水町内の牧場跡地にぽつんと佇むサイロ

伝説の種雄牛

十勝農業協同組合連合会(十勝農協連)が1952(昭和27)年に開いた人工授精所に、開設と同時に入った一頭の種雄牛は、銅像となってジェネティクス北海道 十勝清水種雄牛センターの前庭に佇んでいます。母牛のおなかにいる段階で「オスならぜひ十勝へ」と買い付け交渉が始まったという、「ベツス バーク センセーシヨン」。11年あまりで1万2千頭を超える雌牛に交配されました。
オス誕生の知らせを受けた十勝農協連の技師・角田隆一は、「バークが十勝に帰る」と思わず叫んだといいます。音更・鈴蘭で先進的な経営をしていた世木沢牧場が1941(昭和16)年に軍用地として接収された際、宇都宮牧場に買い取られた雌牛の孫、つまり母方のおばあさんが十勝の出。母牛は1951(昭和26)年の第1回日本ホルスタイン共進会で最高位を受賞した名牛でした。
「選んだ種牡牛が酪農家に喜ばれて長く使用されることは感激の極み」。半世紀で400頭近い種牛を買い付けた角田のことばです。1967(昭和42)年には清水、川西、本別、陸別の4農協の依頼で、米・カリフォルニア州で160頭を買い付けます。ゲノム解析や雌雄産み分けはもちろん、凍結精液もなかった当時、技術者の目利きによって、十勝の乳牛の血統が米国産の高泌乳牛に入れ替えられてゆきました。
1960(昭和35)年、「十勝の牛乳30万石(=約55,849トン)、乳牛頭数3万頭」達成を祝い、バークの銅像が除幕されました。2年後の1962(昭和37)年の秋、老齢の「ベツス バーク センセーション」は最期を遂げました。翌1963(昭和38)年春、士幌農協のリーダー太田寛一のすすめで士幌の酪農青年・鈴木洋一さんは米国での実習に旅立ちます。1年8か月にわたり、機械化と合理的な経営を肌で学んだ鈴木さんが、船で連れて帰ったのは、実習中に貯めた1,500ドルをはたいて購入した乳牛でした。
  • ジェネティクス北海道 十勝清水種雄牛センター前庭にあるバーク号銅像は二分の一の大きさ。11年間に1万2千頭に交配された

自らの手で乳業を

1950年代に入り生乳の需要が増すと、乳業メーカーが激しく競合し、生乳の争奪戦が展開されました。出荷する会社によって酪農家の間にも対立が生まれ、一夜にして集乳地図が塗り替えられることもあったと語られています。
外部に振り回されることなく、牛乳を販売したい──。1961(昭和36)年、中札内村では農家が資材を出し合って自分たちの手で集乳所を建設、翌年には、「農民資本100%」の十勝産業を立ち上げて「十勝牛乳」を発売しました。太田の呼びかけで8農協が出資して設立された北海道協同乳業(現在のよつ葉乳業)に合流するまで8年間、牛乳を販売し、村内の学校給食にも原価で提供されました。
国産飼料や放牧にこだわり低温殺菌のノンホモ牛乳を生産する清水のあすなろファーミング、無殺菌生乳を販売する中札内村の想いやりファームなど、地域乳業の挑戦は今も続いています。
  • 1958(昭和33)年、帯広近郊の音更・鈴蘭公園での集乳風景。
    荘田喜與志撮影、帯広百年記念館所蔵

酪農でわがみちを

清水町の剣山の麓にある出田牧場には、屋根だけの給餌舎と、子牛用の小屋はありますが、牛舎はありません。一年中放牧される牛たちは、零下20度の厳冬期、凍えることはないのでしょうか?「牛は、強いよ」。牧場を開いた出田義國さんは静かに言いました。
出田さんは、大学で出会った基子さんと結婚後、夫婦で岡山県内の公社牧場で働きます。牧場が火事に見舞われ、転職を余儀なくされたとき、親戚の紹介で出会った搾乳牧場の経営者に「赤字続きの経営を立て直してくれたら、牧場をまかせてもいい」と頼まれ、北海道へ。学生時代から思い描いた放牧を実践したら、「牛が変わる、病気が減る、そして牛乳ががんがん増える。おもしろくて、おもしろくて、寝る暇も惜しかった」。
離農跡地が売りに出ると聞き、出田さんが雪道も構わず車を走らせた1977(昭和52)年、岩の多い傾斜地39.5ヘクタールのうち、草地は14ヘクタールでした。今では130頭の牛が、この地の草で育っています。牧場で頂いた牛乳の味を忘れることができません。
  • 1月中旬、雪の上でくつろぐ出田牧場の牛たち(2020年1月撮影)。
    佐藤貢・雪印乳業初代社長も晩年、見学に訪れた
帯広で親が開いた牧場を継いだ廣瀬文彦さんは、父の博昭さんから引き継いだ繋ぎ飼いからフリーストールの牛舎に変えた1991(平成3)年、牧場を「教室」に見立てて消費者との交流を始めます。きっかけは、東京の小学生からの「牛にコーヒーを飲ませたら、コーヒー牛乳が出るの?」との質問でした。牧場を訪れるひとたちに新鮮な牛乳でおいしいものを、と妻の眞由美さんは1999(平成11)年、ジェラートの店を開きます。牧場は既に子どもたちの代になり、文彦さんは家族の歴史を一冊の本「賢者は歴史に学ぶ」にまとめました。酪農を始めた父の博昭さんは子どもたちの将来のために、親が入植した中札内の土地に木を植え続けています。
「酪農なんてやる気もなかった。親も誰もほめてくれないけど、頑張って仕事すると、牛が褒めてくれる、応えてくれるんですよ。だから続けて来られた」。文彦さんのことばです。

夜明けの闇のなか、牛舎に向かうひとびとがいます。そこに待つ、多くの生命が求める仕事を黙々と。そして、だれもやらないことを着々と。
十勝の酪農史には、今日も新たなページが書き加えられています。
  • 戦後酪農を始めた廣瀬博昭さん(左)と、消費者や子どもたちとの交流にいち早く取り組んだ2代目の文彦さん(2022年7月撮影)
  • 建設された年代によって個性豊かな塔型サイロたち。いつまでこの風景が見られるだろうか

【換算】牛乳、バター等を計量する場合
石(こく)=186.164キログラム   ポンド=英斤=453.6グラム


(一部敬称略)
 【文献】
北海道家畜改良事業団「北海道家畜人工授精発達史」1978
「十勝農協連二十年史」1968
角田隆一「技術員の酪農史」1989
伊沢佐恵子「白樺の向こう側~戦後入植の記~」2009
清水町中央公民館講座 自分史づくり教室「山の上の星くず」1992
「新中札内村史」1998
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]