【横浜編】
第1回 幕末の居留地へ

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

それまで静かな一漁村だった横浜は、1859(安政6)年の開港以来、外国人が身近に生活する国際色豊かな港町として発展しました。欧米人によって持ち込まれた「酪農」という異文化が、他の地域に先んじていちはやく浸透し、日本における近代酪農の先駆けとなっていきます。

第1回 幕末の居留地へ

急ごしらえの港町

横浜・日本大通りに面した横浜開港資料館の中庭にそびえる大きな木をご存じでしょうか。樹齢250年、ペリー来航時の絵図の隅にもその姿があると伝わる「たまくすの木」です。開港とともに国際貿易が始まり、大火事や大地震、戦火に幾度も破壊されては再生した横浜の変化を、見守り続けています。
同館地下にある予約制の閲覧室でコピーしたのは、「横浜明細全図」。初版が作られたのは1864(元治元)年、「慶応四戊辰春再版」とあり、幕末の最後の頃の、横浜のすがたを写したものです。
日本大通りを境界として、海岸側の一番から百七十六番まで区画されているのが旧居留地です。観光客で賑わう中華街もすっぽりと含まれています。西半分が日本人の商人が店を構える日本町で、そちらは通りに名前が記されています。
海と運河、そして横浜スタジアムがある横浜公園の南側を大岡川が取り囲み、港町一帯は言わば長崎の「出島」のような状態でした。地図の手前が「ハトバ」、そこには、国旗を掲げた十五の外国船が停泊している様子が描かれています。
  • 横浜明細全図 神奈川県立歴史博物館所蔵
1859(安政6)年、横浜が開港されると、生糸や茶の貿易に従事し「英一番館」と呼ばれたイギリスの商社ジャーディン・マセソン商会などの商館の建設が始まります。隣の日本人町では、開港の1か月後には江戸や神奈川のほか、地元からも71人の商人らの店舗が軒を連ねました。文久年間(1861~1864年)には日本人町に390軒、居留地には約100軒の商館が並ぶ港町が出現しました。
スイスの通商調査団の団長として1859(安政6)年に派遣されたプロシア出身のルドルフ・リンダウが、1864年に出版した紀行文の記述によれば、「…彼等の積極的活動によって、その貧乏でぱっとしない村は、ごく短期間で裕福な華やかな都会に変身したのである」(ルドルフ・リンダウ「スイス領事の見た幕末日本」1986年)。文頭にある「彼等」はヨーロッパ人とアメリカ人を指し、3千ないし4千の住民が「みな例外なく、外国人から彼等の生活手段を引き出しており、まさにそのことの為に、彼等の祖国の起死回生の歴史に大役を果たす運命にあるのである」と鋭く指摘しました。輸出中心の長崎、箱館(函館)とは対照的に、横浜では輸入が盛んであり、「日本人は西欧の何千と言う工業製品を買い込んで絶えず研究を重ね、彼等の旺盛な知性を活かして、既にそこから利益を生み出すことを会得してきているのである」(同書)と———。
「我々外国人は、食事の時にも武器を手放さず、枕の下に弾丸を込めたピストルを置いて、眠りに就いた時代のことを覚えている」———。1863(文久3)年に来日したジェームス・ファブル=ブラントの回想です(「ジャパン・ガゼット横浜50年史」1909年、「日本人との出会い」)。当時、外国人は目の敵にされ、「攘夷」の名の下に、日本刀で武装した過激派の武士に狙われていたのですから、無理もありません。
張り詰めた生活のなかでほっと一息つくとき、コーヒー、そして牛乳を欲していたことでしょう。バターやチーズは輸入できても、牛乳を運んで来ることは難しい。外国人の需要を満たすため、酪農という異文化が横浜に「輸入」されることになりました。

絵師が見た乳加工

港町に入る橋の横には、「関内」という駅名に名残りがあるように、大きな関門のある関所がありました。開港後まもない頃を知る外国人が語ったところによると「1860年代初期に、山手には家も道路もなかった。外国人居留地と日本人町から外に出る四つの橋-谷戸橋、前田橋、西の橋、吉田橋(現在は、鉄=カネの橋として知られている)—の所には、警備のサムライがいた。関門は夜明けに開かれ、日没にとじられ、通行人はみんな非常に厳しい取り調べを受けた」(「ジャパン・ガゼット横浜50年史」1909年、アレクサンダー・クラーク、「横浜の移り変わりについての興味あることなど」)。
近くにありながら自由に行き来できない、関所のむこうの「異国」の情報を、いち早く伝えた絵師がいます。開港地での外国人の様子を描いた「横浜絵」と呼ばれる錦絵の名手、下総国(現在の千葉県南部)生まれの浮世絵師・玉蘭斉貞秀です。居留地での外国人の生活をいきいきと描いた「横浜開港見聞誌」は、当時としては珍しく単行本として出され、ベストセラーになったとか。外国に行くことなど考えもしなかった時代、異文化への好奇心は今よりはるかに強かったことでしょう。
1862(文久2)年に出版された前編三冊に続いて、慶応年間に出版された4編の「牛屋」に、以下の説明があります。
「牛をひさぎて其肉を食用に仕して油を取り、又乳を取りて是をボートルと名付、異人日用の食に是をつかハざるハなし」。
ボートルはオランダ語でバターのこと。牛を肉用として売買すること、また乳をしぼってバターにし、日々欠かさず使うこと。バターを加工する過程で、脱水しているところが描かれているようにも見えます。東洋人のように見えるのは、仲介業者やコックなど使用人として連れて来られた中国人だったのかもしれません。
  • 「横浜開港見聞誌 四編」より 横浜開港資料館所蔵
絵師による解説に、「もっとも毒消し第一の妙薬にて、西洋諸国また亜墨利加みなみな大海を渡り、種々の国へ交易に渡るゆえに、このボートルを持ちいけばその地によりて暑さ極く強きあり、寒きこと雪の穴中に住む国あり、悪気深きあり、真水を得て食すといえどもこのボートルを用ゆる時はその諸気にあたるなし。これにてパンをあげ、何を煮てもその中へこのボートルを用ゆるなり。油をしぼりとりたるあとに粕のこりたるを、またうどんの粉を入れてこれをねりまぜ、ボートルにて揚げ、下官またはやとい来る黒人の常食に用ゆ」とあります。「毒消しの妙薬」でこれさえあれば暑くても寒くても気候にやられることがない、と薬効を伝えています。油をしぼりとった粕というのは、バターミルクそれともバターオイルを取ったあとに残った固形分でしょうか。
この部分では、居合わせた人の間で「白牛酪」が話題に上がり、「白牛に白ごまを喰わせ、その乳をとりて薬種にねりまぜたる物なり。無禄下賤の我等まで仕う品にてはあらぬこと、ボートルとは同論にはなるまい」と話したとも記述しました。
白牛酪とは、八代将軍吉宗の頃から将軍家に献上するため、安房国の嶺岡牧(現在の千葉県南房総市・鴨川市にあった幕府の直轄の牧場)で製造された、牛乳に砂糖を加えて煮詰めた乳製品ですが、庶民には縁のない食べ物でした。

牛乳の値段

開港直後の1860年頃に横浜に来たイギリス人の回顧談に、牛乳について興味深い内容が含まれていました。1859(安政6)年12月8日、上海から横浜に向かう途中に難破して幕府に保護され、その年の暮れに横浜に送られ、貿易などに従事したG.W.ロジャースが、晩年の1904(明治37)年に講演で語った内容が当時の新聞に掲載されていたのです。長年にわたり横浜の開港期の文化交流史を調査・研究した斎藤多喜夫さんの「幕末・明治の横浜 西洋文化事始め」(明石書店)に全訳が掲載されています。
肉を買うこともできず、屠畜する日本人はおらず、初めて牛肉を食べたのは翌1860年3月か4月だったこと。牛の価格は安く、五両、メキシコ銀7ドルで買うことができ、何人かで共同購入して横浜ホテルの厩舎で肉にしたこと、最初の肉屋がどこにあったかなど、記憶は鮮明です。その頃ロジャースは20歳の若者であり、胃袋につながる記憶は強く刻み込まれたのでした。 1860年初頭の物価について、「キジの肉は天保銭6枚、メキシコ銀で12セント、卵は一箱一分、メキシコ銀33セントで買うことができた。(中略)牛肉はどの部位も一ポンド当たり6セントだったが、サーロインだけは8セントした。豚肉は6セント。牛乳はきわめて手に入りにくかったので、一瓶当たり一ドルした」と述べています。1ポンド(約454グラム)の肉が10セント以下で買えたのに、牛乳はその10倍以上の高値で取引されたことがわかります。
当時の状況について、1863(文久3)年から1880(明治13)年に亡くなるまで長く日本に住んだイギリス人ジャーナリスト、J・R・ブラックが以下のように記述しています。「外国人がこの国に出現して以来、いく年もたった後になって、やっとよい牛乳が外国人の日常の需要を満たすようになったにすぎない。手に入るわずかな牛乳も、ほとんどみなヨーロッパ人の肉屋の好意で売ってもらうわけで、その肉屋も、日本のよい牛を数頭飼っていて、お顧客に供給するために骨を折ったのである」(「ヤング・ジャパン」、1880年)。当初は肉屋が牛乳を供給していたと見られています。

前田留吉とエドワード・スネル

日本人として初めて牛乳を搾り販売したとされる前田留吉も、幕末に横浜でオランダ人に雇われて技術を修得したと伝えられています。この話の元は、1886(明治19)年に出版された「日本牧牛家実伝」。時期については文久年間、天保11年生まれの前田は20歳前後だったとしています。
しかし、斎藤さんによると、この話の裏付けが取れないといいます。文久元年に留吉に牧牛を教えたとされる「蘭人ベロー」もその雇人の「英人ボーロ」も該当する人物が見当たらないそうです。また、オランダ人「スネル」に雇われ、その後独立して搾乳業を始めたという別の説も存在しますが、この人物と見られるエドワード・スネルが牛飼いに従事した形跡も見つからないということです。

実在したエドワード・スネルのこの時期の動きを同時代の記録から探してみることにしました。1863年に来日したスイス使節団の全権エーメ・アンベールは「当時の居留地の代表者は、わずか十六歳たらずで来日した、われわれの若い友人、シュネル氏だった」と書いています(「幕末日本図絵 上」、1979年)。同じくスイス使節団の一員として来日したカスパー・ブレンワルドの日記にも、「スネル君」は到着直後の一行をオランダ領事ポルスブルックや、1860年に時計連合会から派遣されたフランソワ・ペルゴに引き合わせたとの記述があります。スネルは、若くして居留地コミュニティの「顔」だったようです。その後スネルとペルゴはスイスとの条約締結に協力、条約締結後の1864年以降、スネルは領事館の書記官となります。

幕末から60年余りたった昭和初期に刊行された「横浜市史稿・産業編」に、スネルが付近で屠牛場を開いていたと記述がある前田橋を訪れました。中華街のすぐ近く、市街地の真ん中です。記述によれば、スネルに雇われ、牧牛と搾乳を修得した前田留吉は、露木清兵衛から三十両を借り入れて、1866(慶応2)年8月に前田橋から西に2キロほど行った太田町八丁目、加賀町警察署付近に牧場を開き、房州産牛6頭で搾乳業を始めたとされています。記述は具体的ですが、このことを裏付ける同時代の史料は見つかっていません。
  • 現在の前田橋
斎藤さんによれば、このあたりで牛を飼うことができたとすれば、イギリス領事館と監獄が建てられる前の1862年頃までの時期。当時は、数人の家畜商がいて家畜小屋もあったといいます。
日本人の先駆者が誰であったにせよ、初めて牧畜に従事する際に、先達から乳搾りや牛乳の扱いを教わる必要がありました。真っ先に外国人の懐に飛び込んでいった人たちの手に、まず技術が伝えられたのでした。
  • 歌川芳員 横浜異人屋敷之図(1861年) 神奈川県立歴史博物館所蔵
 【参考文献】
 五雲亭貞秀「横濱開港見聞誌 4編」1865年
 J・R・ブラック/ねずまさし・小池晴子訳
 「ヤング・ジャパン 横浜と江戸」1970年(原著1880年)
 金田耕平「日本牧牛家実伝」1886年
 太田久好「横浜沿革誌 全」(復刻版)1970年
 「横濱市史稿・産業編」1932年
 バーナード・恭子、小玉敏子訳「ジャパン・ガゼット横浜50年史」
 横浜市市民局相談部広報課「市民グラフ ヨコハマ」第41号 1982年6月
 斎藤多喜夫「幕末・明治の横浜 西洋文化事始め」2017年
 エーメ・アンベール「幕末日本図絵 上」1979年
 ルドルフ・リンダウ「スイス領事の見た幕末日本」1986年
 半澤正時「横浜ことはじめ」1988年
 石川榮吉「欧米人の見た開国期日本 異文化としての庶民生活」2008年
 横浜開港資料館「ブレンワルドの幕末・明治ニッポン日記」2015年
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]