【横浜編】
第2回 横浜で生まれた牛乳の需要

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それまで静かな一漁村だった横浜は、1859(安政6)年の開港以来、外国人が身近に生活する国際色豊かな港町として発展しました。欧米人によって持ち込まれた「酪農」という異文化が、他の地域に先んじていちはやく浸透し、日本における近代酪農の先駆けとなっていきます。

第2回 横浜で生まれた牛乳の需要

山手の駐屯地

1862(文久2)年から1863年(文久3)年にかけて、薩摩藩主・島津茂久の父である島津久光の行列を馬で横切ったイギリス人らが切り捨てられた生麦事件や、フランス人士官・カミュの殺人など、居留地の人達を震撼させる事件が相次ぎました。イギリスとフランスの公使が、居留民保護のために自国の軍隊を横浜に駐屯させることを強硬に主張するなか、長州藩が下関で外国船を砲撃すると、各国の軍艦が横浜港に集結して停泊する事態となりました。
英国行使・パークスから、停泊した軍艦に長期滞在する士官、水兵の健康上の懸念から陸上に兵営を借り受けたいと求められると、幕府は、谷戸坂上(現在の「港の見える丘公園」に沿って谷状の地形を貫くように丘の上の山手町を結ぶ谷戸坂を登り切った辺り)に両国軍艦の乗組員の駐在を認めました。
ほどなく山手の最も眺望の良い場所に、兵営や総督の住宅、病院や火薬庫など30棟もの駐屯地が形成されたのでした。
  • 現在の横浜市中区山手町にある谷戸坂
「フランス山」と呼ばれる、現在の「港の見える丘公園」がある丘陵の一部とゲーテ座跡から横浜山手聖公会にかけての範囲には英軍第20連隊が駐屯し、英語の「トウェンティ」からトワンテ山と呼ばれました。1864(文久3)年5月に仏国軍300人、6月には英国軍は約1200人を数えました。
居留地のあった山下町と元町を隔てる堀川に架かる谷戸橋を渡り、緑の木々に覆われた、かつてのフランス山に登ってみました。1875(明治8)年3月、両軍が引き上げた後も土地所有権は残りました。1894年に建てられ、関東大震災で倒壊したフランス領事館跡には、風車で汲み上げる井戸の遺構がありました。さらに進むと、1977年(昭和52)に米軍機が墜落して犠牲となった若い母親と幼い子を悼む「愛の母子像」がありました。
1875(明治8)年の撤退まで12年続いたイギリス、フランス軍の駐留は、日本側にとっては大きな負担でしたが、駐屯地の食料調達という大きな需要が生まれました。

乳牛の到着

「…今までにないほど立派な牝牛を連れて来た、おまけに立派な仔牛六頭も連れて来た」。
横浜の居留地で日刊紙「ジャパン・デイリー・ヘラルド」を発行していたスコットランド出身のジャーナリスト、ジョン・レディ・ブラックのもとを訪ねてそう語ったのは、エンターテイナーのリチャード・リズレー“教授”です。1866(慶応2)年春のことでした。
ブラックの記述によれば、「彼は始めて牛乳店を開き、横浜に氷倉庫を建てて、天津から輸入した氷を貯蔵した人だ。これは人々に大きな福音だった。さらにこの地から、日本人曲芸団をひきつれて、欧米に公演した最初の人だ、ということをつけ加えておこう」(「ヤング・ジャパン」、1880年)。1843年からロンドンのストランド劇場に出演し、一時はヨーロッパで一世を風靡したという曲芸師のリズレーは、1864年に曲馬団を率いて横浜へ来て、天津からの氷の輸入などさまざまな事業を手掛けました。
1865年9月28日付の同紙で牧場創設計画を明らかにし、かつてペンシルヴェニア州で牧場を経営した経験を生かし、翌年初頭にはカリフォルニアの牛から搾った牛乳、クリームとバターを提供するつもりと語っています。アメリカ領事のG・S・フィッシャーと、横浜在住のアメリカ人商人であるJ・アルマンドから開業資金の提供を受けていたといいます。
まさに有言実行、カリフォルニアから定期貿易スクーナー船のアイダ・D・ロジャース号で、牧場計画に欠かせない乳牛を連れて横浜に戻ったばかりでした。
有力者に支援され、順風満帆の船出…のはずが、速度を誇るスクーナー船がこの時は遅れに遅れて70日もかかり、牛たちは水不足に見舞われてしまいます。
「海へ落とすか、死ぬまで放っておこうかと、そればかり考えたね。まだ決心しかねていると、神様は有難いことに、ひと晩雨を降らせて下さった。わしは馬のように働いたよ、六千ガロンの水をためたよ。まったく、この手でさ。さあ、どんなに働いたか、察してくれ。水と言う水は、みんなわしの手でバケツで汲んだ。…」
「水が足りなくならない前の奴らを見せてやりたかったよ。まったくみごとな奴らでね。わし自身が選び出したのだ。あいつらを見ると、わしも乳牛(good milkers)には目があると思うね。みんな搾乳用に選んだ極上品だ。ほかのことじゃない、奴らはとんとん拍子にゆくぞ」。(いずれも「ヤング・ジャパン」、1880年)
1866(慶応2)年4月から12月まで、繰り返し掲載された新聞広告が、牛乳販売の証拠となりました。
ブラックは「乳牛業は、有利で、非常に有用な、見上げた事業として、とんとん拍子にいった」と記しました。しかし、まもなく天津へ氷の船荷を取りに出かけ、日本の曲芸団のアメリカ・イギリス巡業のマネージャー兼事業主として飛び回っている間に、牧場は他人の手に渡ってしまった、ということです。
  • The Daily Advertiser(No.154, 1866年4月2日)に掲載されたリズレーの牛乳広告。1ビン25セントとある 国会図書館 所蔵

横浜牧場

リズレーの牛乳販売が続いていたと見られる1866(慶応2)年10月、「ジャパン・デイリー・ヘラルド」に、横浜牧場(YOKOHAMA DAIRY)の開業広告が掲載されました。
広告には、純血のアメリカン&ダルハムの乳牛と必要な機器を揃えて「この港に第一級のヨーロッパ型牧場」を設立、「純粋な搾ったままの牛乳」を提供します。注文は「137番」へ、ご希望があれば同じ乳牛の牛乳を毎回提供いたします、ともあります。広告を出したのは ジェームス商会(S.James&Co.)でした。ジェームス商会は、ジェームスとウィルソン、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を開いてビール醸造を手がけたウィリアム・コープランドによる共同経営で始まり、牧場のほかに運送業を手掛けていました。

横浜牧場については、その他にも興味深い手がかりがあります。居留地の有名人ら実在の人物をコミカルに描いた漫画が人気を博した画家のチャールズ・ワーグマン発行の雑誌「JAPAN PUNCH(ジャパン・パンチ)」1866(慶応2)年8月号に掲載された「傷心のミルクマン」と題する漫画です。
  • JAPAN PUNCH 1866年8月号 横浜開港資料館所蔵
ワーグマン作品の研究者・清水勲によれば、作品のタイトルは「失意の牛乳屋と横浜の土地の価格」で、この人物をリズレーとみなして「1866(慶応2年)にはアメリカより牛を輸入して山手に牧場を経営するが、図のように次々と死んで失敗する」と解説しています。漫画の男性の帽子には「横浜牧場」とありますが、「the Bluffに『横浜』と『はったり』の意味をかけている?」のではないかと清水は推測しています。
ちなみに、当時、ロンドンで流行った「The broken hearted milkman」という歌があります。その歌詞は、牛乳売りの少年が、窓の下で缶を鳴らすと牛乳を買いに降りてくるメイドの女の子に恋焦がれ、プロポーズしますが、しがない牧夫なんかイヤ、お金持ちでなければ、と言われて失恋するというものでした。当時ロンドンで売られた楽譜の表紙に、シルクハットにメイドの白いエプロンをまとった男性が描かれ、おそらく男女パートをひとりで歌い分けるパフォーマンスが有名だったのでしょう。この歌の扮装ふんそう を、地元の牧場主にあてはめて当時の牧場経営者の悩みの種、土地価格の高騰で牧場が狭いことを表現したのでしょうか。
横浜の牧場について調査した斎藤多喜夫さんは、リズレーの牧場が、その後、ジェームス商会の牧場に合併されたのではないかと推測しています。
1874(明治7)年頃には、根岸のクリフ・ハウス牧場が記録に現れます。ジェームス商会からコープランドが抜けた後に、ジェームス&ウィルソンの社員が従事し、1878(明治11)年に牧場経営がテオドール・ヘルムに、その後、獣医ジャフレーに継承され、ジェームス・ウィンスタンレーの横浜牧場に合併されたそうです。牛疫流行後、ウィンスタンレーが再建した牧場を、1899(明治32)年に岩手県出身の山岸茂八が継承します。1917(大正6)年発行の神奈川県畜産要覧に「ウインスタン牧場」の名で、山岸茂助が広告を出しています。その名は長く使われました。

シモンズと中川嘉兵衛

1861年から1909年まで、幕末から明治にかけておよそ半世紀にわたって横浜に滞在したJ.H.バラ牧師の回顧談は、「牛乳や氷の導入、および販売は、D・B・シモンズ博士と彼の使用人であった中川嘉兵衛が日本で最初に行ったものである」(「ジャパン・ガゼット横浜50年史」1909年)と締めくくられています。
中川は「横浜開港以来」太田町1丁目に居住し、失敗を重ねながらも天然氷の採取を目指しました。氷商売に取り組んだのは、ローマ字による日本語辞書を編さんし、眼科医でもあったJ・C・ヘボン博士やシモンズらアメリカ人との交流のなかで、氷が医療に欠かせないことを実感したのがきっかけだったとか。富士山や赤城の山など各地の氷を試み、明治に入ると氷室を建設し、函館・五稜郭の氷を切り出して出荷しました。

〔パン・ビスケット・ボットル・右品私店に御座候多少に寄らず御求被成下度奉願候 横浜元町一丁目 中川屋嘉兵衛〕——「万国新聞紙 第三集」
これは、幕末の1867(慶応3)年3月に横浜で発行された日本語新聞に掲載された、初めての乳製品販売広告です。ボットルというのは、バターのこと。元町一丁目の中川の店は、谷戸坂の登り口に近かったそうで、隣にはイギリス軍兵站部売店とその製パン所がありました。そこで仕入れたパンや輸入バターを売っていたと考えられています。外国人との交流の中でバターの美味しさを知り、買い求めた日本人もいたことでしょう。
「横浜市史稿・産業編」には、中川と牛乳を巡るエピソードがいくつか記されています。弁才天付近に搾乳所を設け、アメリカ人医師のシモンズのところでビン詰めにして外国人に供給した、1866(慶応2)年の大火で乳牛2頭を焼失した際に、シモンズが「中川は牛の丸焼きロースをつくった」とジョークを言った、等々。ただ、大火の年にシモンズはアメリカに帰国しており、時期が定かとは言えないそうです。
後年、中川は菅生健次郎と組んで駐屯軍兵舎の食料品用達となり、中川がレタス、キャベツ、カリフラワー、イチゴなどの西洋野菜や果物を、菅生が牛乳を納入したと言われています。
  • 菅生健次郎/横浜諸会社諸商店之図 神奈川県立歴史博物館所蔵
横浜開港側面史にある坪井伴之助の回顧談によれば、病気にかかった際に「北方で乳をしぼり、谷戸坂で売っている家がある」とのことで買いに行くと、この「乳屋」は西洋人に販売しており、「日本人に売つたことはない」と言われた、といいます。当初は外国人御用達だった牛乳店に、少しずつ日本人の客が増えていったと思われます。シモンズのほか、ヘボンやジュリア・クロスビー女史ら、宣教師として横浜に滞在したアメリカ人が、牛乳を日本人に熱心にすすめたと伝えられています。
 【参考文献】
 J・R・ブラック/ねずまさし・小池晴子訳「ヤング・ジャパン 横浜と江戸 2」1970年
 神奈川県畜産共進会「神奈川県畜産要覧」1917年
 横浜貿易新報社「横浜開港側面史」1909年
 「横濱市史稿・産業編」1932年
 半澤正時「横浜ことはじめ」1988年
 斎藤多喜夫「幕末・明治の横浜 西洋文化事始め」2017年
 芳賀徹、酒井忠康、清水勲 編「ワーグマン素描コレクション 上 舶来文化」2002年
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]