【横浜編】
第3回 文明開化の街角で~馬車道

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

それまで静かな一漁村だった横浜は、1859(安政6)年の開港以来、外国人が身近に生活する国際色豊かな港町として発展しました。欧米人によって持ち込まれた「酪農」という異文化が、他の地域に先んじていちはやく浸透し、日本における近代酪農の先駆けとなっていきます。

第3回 文明開化の街角で~馬車道

当時の外国人居留地があった関内と外の世界をつなぐメインストリートの一部として、幕末の大火後、1867(慶応3)年に開通したのが「馬車道」です。幅60フィート(18メートル)で馬車が通行できるこの道路も、外国人の要請を受けて整備されました。都市の日常風景のなかに歴史的建造物が溶け込んだ街角に、牛乳に関わりのある史跡がありました。
  • レトロな雰囲気が漂う「馬車道」

写真師の副業

幕末の横浜でいち早く写真術を学び、商業写真家のはしりとして活躍した下岡蓮杖(1823-1914)は、この馬車道(現在の中区太田町五丁目)に写真館を開きました。多くの人物写真が撮影された写真館で、牛乳も販売されていました。1909(明治42)年発行の「横浜開港側面史」に、晩年の蓮杖による、以下のような回顧談が載っています。

「それから日本人一般にもどうかして、牛乳を吞ませたいと最初五百弗を出して、乳牛一頭を買ひました。一頭だけで日に一斗五合づつ出たが、一日に売れる所は僅かに三升かそこらで、餘は空しく腐らしてしまって、そうっと夜になって河へ捨てると云う始末値段でも安くしたら少しは売れるだらうと一合四百文宛にしたが、今度は餘りに安いので水でも混ぜて売るのだろうと益々評判が悪くなりました、當時外国人の牛乳屋では一合六百文づつで売っていたのですから此の疑いも無理ではない」

乳牛が五百ドル、日に一斗五合とは、数字が大き過ぎるように思いますが、大枚はたいて買い付けた乳牛の牛乳が売れないというのは由々しき事態です。何とかしたいと知恵をしぼって、思いついたのは搾乳の現場を見せることでした。写真屋さんらしい発想ですね。語りは、続きます。

「此上は乳汁を搾る現場を見せるに如くはないと搾乳場を解放して一般の縦覧に供して、値も外国人通り六銭に上げた所、そろそろ売れ始めて四千円ばかり儲けましたが、儲けた金では牛を買ひ込んで、到頭十八頭に迄殖しました、店は太田町五丁目の角にありましたが、牛を飼って置くのは戸部の谷戸でした、(後略)」(下岡蓮杖談)
  • 写真館で牛乳も販売した下岡蓮杖の記念碑
横浜でよく出て来る谷戸という言葉は、狭い谷あいのことだそうです。湧き水が豊富で、古くから生活に適した場所でした。そんな谷戸の奥まった部分が広がっているという地形の特徴を生かして、いくつも牧場が作られていきます。谷あいが開ける入り口部分をふさぐかたちで家畜の管理が容易であること、都市の近郊でありながら集落から隔たっていることも利点だったとされています。
高台で暮らす外国人の食卓に欠かせない牛乳や肉を、谷戸の牧場が供給したのでした。

仮名垣魯文の「牛乳広告」

1873(明治6)年5月31日の横浜毎日新聞に「新鮮牛乳売捌」と題した広告が掲載されました。広告を出したのは、戯作者の仮名垣魯文。戯作者というのは通俗的な読み物の書き手を指し、代表作「牛店雑談安愚楽鍋」で牛鍋屋に集う人々の浮かれ騒ぎを描いた数年後のことです。現代語訳でご紹介しましょう。
**************
牛乳の効能は牛肉よりさらに上と言われます。殊に熱病や疲労、虚弱症状の人には欠かせない、素晴らしいものです。いかに良薬があっても、牛乳で根気を養わないことには薬も効きません。西洋諸国においては日常的に牛乳を飲むことは階級を問わない習慣となっています。当港太田東福寺奥の牧畜所において米国カリフォルニア産の若牛を養育中で、ただ今牛乳(ミルク)を絞って広く希望される方に販売いたします。健康を維持し、心身を養いたいならば左記へご依頼ください。毎朝本社の往復時に毎戸に運搬、迅速に対応します。
絞った牛の乳そのままにそれを飲む 或いは砂糖を入れて飲むのもよろしい 口に慣れないうちは茶、コッヒーを濃く煎じて混ぜれば非常に風味がよくなります。
〇一合 代価 銀三匁
〇一ヶ月仕切り 二割引
元弁天新聞会社中 神奈垣魯文寓居(※仮名垣魯文の別名)
***************
広告に飲み方の説明もあって気が利いていますが、どこかで読んだような…。福沢諭吉が1870(明治3)年に出した築地牛馬会社の宣伝文「肉食之説」の受け売りでした。とはいえ、新聞の読者に対して牛乳を一緒に配達することを提案したのは名案ですね。ちなみに「牧畜所」のあった太田東福寺は旧太田村、現在の横浜市南区にあたるそうです。京浜急行電鉄「南太田」の駅名に当時の地名の名残りが見られます。この地域には、その後牧場がいくつも開かれました。

当時は貨幣が円・銭に切り替えられて間もなかったせいか、価格は「もんめ」(1匁は3.75g)、重量換算で表現されています。牛乳1合が銀3匁(約11グラム)とすれば、配達料込みにしても高いですが、船の発着情報が主たるニュースだった新聞の読者層の多くは、貿易に従事する「持てる」ひとびとだったでしょう。
仮名垣の広告が出るわずか2日前、5月28日の同新聞に「由良勧農助殿帰朝伝聞」という記事がありました。牧畜研究のために米国と欧州に派遣された由良守応が、「英国〔龍動〕〔スコツトラント〕〔仏国和蘭陀〕〔ゼルマン〕〔大スタリヤ〕など牧畜で有名な地域を調査して家畜を購入して帰国したとのニュースが載っています。記事は、「牧牛等も数十頭を相撰」「〔バタ〕を製するに宜し或いは〔チース〕を製するに宜し其良種の牡牛牝牛」や騾馬らばを買い入れ、昨二十五日の夜着岸したと伝えました。「是を以て 皇国中牧畜に適した地勢を見立て拡充せしめんとの公の見込みならん」と、政府の牧畜振興方針を報じました。すでに乳製品の国産化も視野にあったことがわかります。ちなみに「龍動」はロンドン、大スタリヤは、おそらくオーストリアを指していると思われます。

アイスクリームについての伝承

幕末から明治にかけての出来事を綴った「横浜沿革誌」の明治2年、つまり1869年の項に「横浜馬車道に氷水店開業のこと」と記載があります。横浜の裁判所に電線が架けられ、電報が初めて送られた6月のことでした。
 「同月、馬車道常盤町五丁目に於て町田房三なるもの氷水店を開業す、当時は外国人稀に立寄、氷、またはアイスクリームを飲用す、本邦人は之を縦覧するのみ、店主為めに当初の目的を失し、大に損耗す、」
(「横浜沿革誌」)
残念ながら、氷とアイスクリームの店は、たちまちに評判とはならなかったようです。外国人がたまに来店し、アイスクリームを飲んだものの、日本人は見物するだけでした。しかし、この話には、以下のような後日談がありました。
「尚、翌三年四月、伊勢山皇太神宮大祭に際し、再び開業せしに頗る繁盛を極め、因って前年の失敗を恢復せりと、爾来陸続来客ありて、恰も専売権を得たる如く繁栄を極めたり 之を氷水店の嚆矢とす」
折しも、港を臨む野毛の丘に、伊勢山皇大神宮を遷座した創建の大祭です。同神宮のウェブサイトによると、戸部の地にあった古社を再興して遷座し、5日にわたり盛大に祝われたそうです。この大祭に合わせて営業したところ、大繁盛したとのことです。4月でありながら、晴れて暑い日だったのでしょうか。
馬車道にある母子のモニュメントは、この出来事にちなんで、日本アイスクリーム協会が1976(昭和51)年に建てたものです。馬車道通り商店街では、アイスクリーム発祥の地として、1978(昭和53)年から「アイスクリームの日」の5月9日に、アイスクリームの無料配布が行われているそうです。
  • 1869年に開店した氷水店にちなんだモニュメント
「横浜開港側面史」によれば、馬車道の通りに氷屋を出したのは「中川嘉平(中川嘉兵衛)」でした。中川嘉兵衛と言えば、幕末に牛乳やバターの販売も手がけた人物です。「土用の炎天に氷を食べるというのだから、天保銭の一枚や二枚にはかえられない」と記述され、アイスクリームよりかき氷が売れ筋だったかも知れません。
1871(明治4)年8月、宣教師として派遣された3人のアメリカ人女性が、外国人と日本人の間に生まれた子どもたちや女子の教育のために創設した山手の共立女学校でも、明治期に卒業式の来賓に「自慢のアイスクリーム」が振舞われたことを、当時の卒業生が回想して語っています。
  • ビゴー 「現代日本」61号 明治22年8月15日刊
    「ビゴー素描コレクション2 明治の世相」岩波書店 1989年
 【参考文献】
 バーナード・恭子、小玉敏子訳「ジャパン・ガゼット横浜50年史」1909年刊
 横浜市市民局相談部広報課「市民グラフ ヨコハマ」 第41号 1982年6月
 斎藤多喜夫「幕末・明治の横浜 西洋文化事始め」2017年
 横浜貿易新報社「横浜開港側面史」1909年
 Mark Kurlansky Milk:A-10,000 year history, 2019
 仮名垣魯文「牛店雑談安愚楽鍋」1871年
 横浜共立学園「横浜共立学園120年のあゆみ」1991年
 武田尚子「ミルクと日本人」2017年
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]