それまで静かな一漁村だった横浜は、1859(安政6)年の開港以来、外国人が身近に生活する国際色豊かな港町として発展しました。欧米人によって持ち込まれた「酪農」という異文化が、他の地域に先んじていちはやく浸透し、日本における近代酪農の先駆けとなっていきます。
第4回 日本人も牛乳を
母乳と牛乳
「ヨーロッパの子供がよい肉屋の肉で育っている年になるまで、日本の子供は、まだ母親の乳を飲んでいるが、日本の大人は最近まで(現在でも多くの者は)、牛乳を嫌った。これは度し難い(後略)」
横浜・山手の外国人墓地に眠るブラックは、スコットランド出身で10年以上にわたって日本で暮らしました。欧米人よりはるかに長く母乳を飲んで育つ日本人が、牛乳を忌避する傾向が強いことを「驚くべき事実である」とも述べました。
しかし、日本人は、隣で繰り広げられる外国人の日常生活を興味津々で眺めていました。居留地のビジネスの中心であった生糸貿易に関わる商人、吉村屋幸兵衛の父親である重内もそのひとり。1871(明治4)年12月に書いた手紙に、牛乳の利用について触れられた以下の部分があります。
「乳不足に候はゝ牛の乳もこれあり、浜表の小児牛の乳にて育て候者多分御座候、誠に薬にて大丈夫に育ち候」。母乳が不足しているなら牛乳がある。海岸(居留地)の(外国人の)子どもは牛乳で育てている例も多いが、薬のように体によく、体格良く育っている、というのです。外国人の生活を身近に見ていた人々が、まずは母乳の代替として、牛乳を受け入れていったと見られます。
-J・R・ブラック「ヤング・ジャパン」(1880年)
横浜・山手の外国人墓地に眠るブラックは、スコットランド出身で10年以上にわたって日本で暮らしました。欧米人よりはるかに長く母乳を飲んで育つ日本人が、牛乳を忌避する傾向が強いことを「驚くべき事実である」とも述べました。
しかし、日本人は、隣で繰り広げられる外国人の日常生活を興味津々で眺めていました。居留地のビジネスの中心であった生糸貿易に関わる商人、吉村屋幸兵衛の父親である重内もそのひとり。1871(明治4)年12月に書いた手紙に、牛乳の利用について触れられた以下の部分があります。
「乳不足に候はゝ牛の乳もこれあり、浜表の小児牛の乳にて育て候者多分御座候、誠に薬にて大丈夫に育ち候」。母乳が不足しているなら牛乳がある。海岸(居留地)の(外国人の)子どもは牛乳で育てている例も多いが、薬のように体によく、体格良く育っている、というのです。外国人の生活を身近に見ていた人々が、まずは母乳の代替として、牛乳を受け入れていったと見られます。
横浜牧畜会社
1874(明治7)年、下岡蓮杖の牧場があった戸部で、若命信義らが発起人となり、横浜牧畜会社が設立されました。14人もの有力者が出資したのは、当時牧畜が大いに期待できるベンチャービジネスだったことを物語っています。米国から購入した乳牛を、近郊の契約農家に預けて繁殖し、牛乳販売を手がけました。
1875(明治8)年11月の横浜毎日新聞に掲載された同社の初年度の決算報告によれば、「三千三百八十六円五十銭」で乳牛32頭を購入。この年の3月から6月までの「牛乳利益」が「百五十四円五十五銭四厘」でした。「横浜沿革誌」にもこの年の項に、先に牧場を開いていた下岡蓮杖と「乳汁販売競争ス」との事実が記されていました。早くも日本人による販売競争が始まったことを伝えています。
1875(明治8)年11月の横浜毎日新聞に掲載された同社の初年度の決算報告によれば、「三千三百八十六円五十銭」で乳牛32頭を購入。この年の3月から6月までの「牛乳利益」が「百五十四円五十五銭四厘」でした。「横浜沿革誌」にもこの年の項に、先に牧場を開いていた下岡蓮杖と「乳汁販売競争ス」との事実が記されていました。早くも日本人による販売競争が始まったことを伝えています。
山手の牧場跡にて
中澤源蔵は、横浜における牧畜のパイオニアのひとりと称される人物です。牧牛と酪農の伝統がある安房地方(現在の千葉県房総半島)の出身で、絵師で写真師の下岡蓮杖の牧場で牧夫となったとされています。蓮杖は1823(文政6)年生まれで、明治のはじめにおいて45歳、源蔵は37歳でした。働き盛りの源蔵が、最盛期には18頭いたという牛の世話や搾乳の作業を担っていたと考えられます。
1875(明治8)年に、山手居留地と日本人居住区の境界にあたる北方地区の天沼で乳牛7、8頭を飼い、搾乳場を始めています。1887(明治20)年頃の作とされる銅版画「横浜諸会社諸商店之図」から、諏訪町の牧場の当時の様子を知ることができます。明治初期から外国人経営のビール醸造所が開かれるなど、地名の由縁でもある水をたたえた池が、ここに牧場を選んだ理由だったのでしょうか。立派な角が特徴的な牛が全部で12頭ほど描かれています。手前の建物に煙突があるのは、牛乳の処理室でしょうか。1885(明治18)年の統計によると、中澤牧場の乳牛は30頭、搾乳高は132石228合と順調に生産を続けていたことがわかります。
ご子孫に伝わる話によれば、当時牛乳とバターを山手の外国人に販売しており、バターを保存したと見られる室の跡が牧場跡の石垣に残っているそうです。
1875(明治8)年に、山手居留地と日本人居住区の境界にあたる北方地区の天沼で乳牛7、8頭を飼い、搾乳場を始めています。1887(明治20)年頃の作とされる銅版画「横浜諸会社諸商店之図」から、諏訪町の牧場の当時の様子を知ることができます。明治初期から外国人経営のビール醸造所が開かれるなど、地名の由縁でもある水をたたえた池が、ここに牧場を選んだ理由だったのでしょうか。立派な角が特徴的な牛が全部で12頭ほど描かれています。手前の建物に煙突があるのは、牛乳の処理室でしょうか。1885(明治18)年の統計によると、中澤牧場の乳牛は30頭、搾乳高は132石228合と順調に生産を続けていたことがわかります。
ご子孫に伝わる話によれば、当時牛乳とバターを山手の外国人に販売しており、バターを保存したと見られる室の跡が牧場跡の石垣に残っているそうです。
1876(明治9)年に「横須賀村寄留中澤源蔵豢養セル米国種乳牛悉ク流行疫ニ感染」とともに、横浜牧畜会社の出資者から見舞金が支払われた記録が残っており、横須賀でも牧場を経営しました。明治30年代には、タカナシ乳業の前身の牧場を開く高梨庄三が、遠縁にあたる中澤源蔵の息子・兼吉を頼って横浜に来て、横須賀の牧場の主任を務めたといいます。
1880(明治13)年には、現在の横浜市西区にあたる郊外の太田村で食肉処理場を開きます。
1902(明治35)年版のジャパン・ディレクトリーに掲載された中澤牧場の英語の広告には、「愛生舎の支店」と記載されています。東京・牛込区にあった牛乳店と提携していたと見られます。大正期の横浜市街地中心部の地図の本通り4丁目、銀行が並ぶ通りに愛生舎の牛乳店があったとの記録があり、そこに卸していたのでしょうか。放牧地は根岸の立野とあり、その近くでは中澤牧場の番頭だった屋城若松が独立して牧場を開いています。配達夫や牧夫として一定期間働いたあと、独立して搾乳業を営む人が増えていったことがわかります。
山手の外国人墓地の向かいにある山手資料館から、かつてビール工場だった北方小学校方面に向かう道筋に、牧場がありました。源蔵の亡くなった後の1909(明治42)年、本牧上台に、中澤兼吉が建設した和洋併設住宅の洋館部分と日本家屋の一部が、関東大震災後の1927(昭和2)年、かつての中澤牧場跡地に移築されました。1977(昭和52)年、洋館は現在地に移築され、資料館として公開されました。
1880(明治13)年には、現在の横浜市西区にあたる郊外の太田村で食肉処理場を開きます。
1902(明治35)年版のジャパン・ディレクトリーに掲載された中澤牧場の英語の広告には、「愛生舎の支店」と記載されています。東京・牛込区にあった牛乳店と提携していたと見られます。大正期の横浜市街地中心部の地図の本通り4丁目、銀行が並ぶ通りに愛生舎の牛乳店があったとの記録があり、そこに卸していたのでしょうか。放牧地は根岸の立野とあり、その近くでは中澤牧場の番頭だった屋城若松が独立して牧場を開いています。配達夫や牧夫として一定期間働いたあと、独立して搾乳業を営む人が増えていったことがわかります。
山手の外国人墓地の向かいにある山手資料館から、かつてビール工場だった北方小学校方面に向かう道筋に、牧場がありました。源蔵の亡くなった後の1909(明治42)年、本牧上台に、中澤兼吉が建設した和洋併設住宅の洋館部分と日本家屋の一部が、関東大震災後の1927(昭和2)年、かつての中澤牧場跡地に移築されました。1977(昭和52)年、洋館は現在地に移築され、資料館として公開されました。
1867(慶応3)年に山手地区が外国人居留地となって以来、立ち並んだコロニアルスタイルの異人館は、1923(大正12)年の関東大震災によって倒壊、または焼失しました。横浜に現存する唯一の明治期の木造西洋館であるこの建物は、当時の雰囲気をとどめるものとして、横浜市認定歴史的建造物に指定されています。
一階の展示棚の片隅に、明治期のものと見られる牛乳びんがありました。目を凝らすと「安田製乳舎 全乳」との刻印が見えました。来歴は不明とのことでしたが、横浜近辺のものであれば、貴重な建物と同様に大震災、空襲を生き抜いた強運のびんと言えるでしょう。
一階の展示棚の片隅に、明治期のものと見られる牛乳びんがありました。目を凝らすと「安田製乳舎 全乳」との刻印が見えました。来歴は不明とのことでしたが、横浜近辺のものであれば、貴重な建物と同様に大震災、空襲を生き抜いた強運のびんと言えるでしょう。
港町のミルクホール
明治の末から大正にかけて都市で流行したミルクホール。その元祖と言われるのが、平石佐源次が横浜・常磐町に開いた「ミルクホール」です。1902(明治35)年の元旦、当時流行していたビヤホールに着想を得て、開店したとされています。
横浜成功名誉鑑に「衛生と簡便で誰でも這入って自由に滋養品を摂取するといふ考案で、(中略)決心をしたれば矢も盾もたまらず、早速に開店した」とあり、正月にひらめいて、ほどなく開店したのでしょう。
このアイデアは大当たりで、「續々来客の絶え間がない、随って尾上町羽衣町戸部町に支店を出して益々繁盛した、すると又眞似手も多く出来て、現時では横浜市中に三十餘戸の多きに達し、東京市の如き五百以上に達し其他の都會にも順次同業者が出来る様になった」とあります。まねをする人も多かったことから、この本の出た1910(明治43)年には横浜だけで30店あまりに達しました。同業者組合がつくられ、平石は組合長に推挙されたといいます。
横浜成功名誉鑑に「衛生と簡便で誰でも這入って自由に滋養品を摂取するといふ考案で、(中略)決心をしたれば矢も盾もたまらず、早速に開店した」とあり、正月にひらめいて、ほどなく開店したのでしょう。
このアイデアは大当たりで、「續々来客の絶え間がない、随って尾上町羽衣町戸部町に支店を出して益々繁盛した、すると又眞似手も多く出来て、現時では横浜市中に三十餘戸の多きに達し、東京市の如き五百以上に達し其他の都會にも順次同業者が出来る様になった」とあります。まねをする人も多かったことから、この本の出た1910(明治43)年には横浜だけで30店あまりに達しました。同業者組合がつくられ、平石は組合長に推挙されたといいます。
横浜出身の作家・獅子文六が子ども時代の日常を描いた自伝的小説「父の乳」に、父の営む商店の店員に連れられて出かけたミルクホールについての記述があります。
「彼は、高給を貰ってたとも思えないのに、よく、私をミルク・ホールへ連れてってくれた。その頃、東京でも、学生街にそういう名称の喫茶店のようなものが、開業したが、横浜のそれは、ずっと高級で、メニューも豊富だった。」——「父の乳」(1968年)
1893(明治26)年生まれの作家が、自分で自転車に乗れるようになる前の出来事とあり、ちょうど明治30年代の後半、まだ開店してそうたっていない頃でしょうか。ビヤホールのように華やかな、平石経営の元祖ミルクホールだったかも知れません。
編集者の石井研堂が、大正初期に出した、起業を目指す人向けの実用書「独立自営営業開業案内 第3編」に、東京にあった一般的なミルクホールの様子を詳しく紹介しています。
「エビスビール社で、一たびビヤホールを開きまして後ち、ビヤホールは市内各区に顕はれ、その余勢はミルクホールとなり、近来はきんつばホール、蜜豆ホールという珍ホールまで出現する始末」。ちなみに、恵比寿ビールのビヤホールは、1899(明治32)年8月に銀座8丁目にオープンしました。それから10年、石井が言うところの「ホール繁昌の世の中」にあって、ミルクホールは庶民的な、少ない資本で開業できる事業でした。
「ミルクホールは牛乳の一杯売り所、お酒のほうの縄のれんの格であります」。その営業内容は、「学生相手」で「数種の新聞雑誌と官報を備えおき、これを無料で見せて居るのがお定まり」でした。
客の立場で見れば、通常配達でも1合4銭かかる牛乳を、あたため砂糖を入れてもらって4-5銭で飲めるので、お得感があったとも述べています。甘いホットミルクに「バタつきパン」が定番でした。副業として近隣への牛乳配達を請け負うことも勧めており、牛乳の普及につながったと考えられます。
「彼は、高給を貰ってたとも思えないのに、よく、私をミルク・ホールへ連れてってくれた。その頃、東京でも、学生街にそういう名称の喫茶店のようなものが、開業したが、横浜のそれは、ずっと高級で、メニューも豊富だった。」——「父の乳」(1968年)
1893(明治26)年生まれの作家が、自分で自転車に乗れるようになる前の出来事とあり、ちょうど明治30年代の後半、まだ開店してそうたっていない頃でしょうか。ビヤホールのように華やかな、平石経営の元祖ミルクホールだったかも知れません。
編集者の石井研堂が、大正初期に出した、起業を目指す人向けの実用書「独立自営営業開業案内 第3編」に、東京にあった一般的なミルクホールの様子を詳しく紹介しています。
「エビスビール社で、一たびビヤホールを開きまして後ち、ビヤホールは市内各区に顕はれ、その余勢はミルクホールとなり、近来はきんつばホール、蜜豆ホールという珍ホールまで出現する始末」。ちなみに、恵比寿ビールのビヤホールは、1899(明治32)年8月に銀座8丁目にオープンしました。それから10年、石井が言うところの「ホール繁昌の世の中」にあって、ミルクホールは庶民的な、少ない資本で開業できる事業でした。
「ミルクホールは牛乳の一杯売り所、お酒のほうの縄のれんの格であります」。その営業内容は、「学生相手」で「数種の新聞雑誌と官報を備えおき、これを無料で見せて居るのがお定まり」でした。
客の立場で見れば、通常配達でも1合4銭かかる牛乳を、あたため砂糖を入れてもらって4-5銭で飲めるので、お得感があったとも述べています。甘いホットミルクに「バタつきパン」が定番でした。副業として近隣への牛乳配達を請け負うことも勧めており、牛乳の普及につながったと考えられます。
【参考文献】 J・R・ブラック ねずまさし・小池晴子訳「ヤング・ジャパン 横浜と江戸」1970年 横浜開港資料館「横浜開港資料館館報 開港のひろば 1」1992年 森田忠吉「横浜成功名誉鑑」1910年 石井研堂「独立自営営業開業案内 第3編」1913年 斎藤多喜夫「都市近郊搾乳場の経営—幕末・明治・大正期の横浜の事例から」 『横浜開港資料館紀要』18号 2000年 斎藤多喜夫「幕末・明治の横浜 西洋文化事始め」2017年 横浜市・神奈川新聞社「横濱」75号 斎藤多喜夫「酪農業のパイオニア 中澤源蔵」2021年 明治屋百年史 1987年 高梨芳郎「牛乳とばらに生きる」1985年 |
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]