【横浜編】
第5回 サギ山の牧場

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

それまで静かな一漁村だった横浜は、1859(安政6)年の開港以来、外国人が身近に生活する国際色豊かな港町として発展しました。欧米人によって持ち込まれた「酪農」という異文化が、他の地域に先んじていちはやく浸透し、日本における近代酪農の先駆けとなっていきます。

第5回 サギ山の牧場

東京湾に突き出た岬で、古くから豊かな漁場だった横浜の本牧沖には、1854(嘉永7)年、ペリー艦隊が二度目に来航し、幕府との条約交渉にあたった間、「黒船」が停泊しました。幕末に外国人居留地が山手へ拡張され、居留地内の需要を支えるため、牧畜や野菜栽培が郊外の丘陵地で行われるようになります。こうした中、明治初期には、根岸、本牧に大小の牧場が開かれて行きました。
本牧の崖の上にある横浜市八聖殿郷土資料館で、古い地図を見せてもらいました。1936(昭和11)年9月、およそ90年前の地図を見ると、丘と谷戸が入り組んだ地形を生かして、本牧と根岸の丘陵地に牧場がいくつもあったことがわかります。
  • 1936(昭和11)年の「大日本職業別明細図」横浜市中区・磯子区(部分)※赤丸(牧場)は筆者による
牧場の痕跡を探して、家々の並ぶ路地を、横浜市立大鳥小学校に向って歩きました。校舎の上をサギのような一羽の鳥がゆっくり飛んでいきました。

ハマっ子の「物語」

平塚武二(1904-1971)の児童文学「ヨコハマのサギ山」に、牧場のあった頃の本牧の丘が描かれています。外国人が住んでいたペンキ塗りの西洋館は「異人やしき」と呼ばれ山の上にあり、そのふもとには「海の岩に、カキがくっついているように」小さな家がたくさんあったーー。そんな回想で始まるこのお話の伝える景色は、横浜の街を歩きながら感じた違和感と重なります。所狭しと屋根を連ねる、生活感のある庶民の住まいの一方で、丘の上はまるで別世界。広い敷地が確保され、瀟洒な洋館風の建物が建っています。

サギ山のあたりは、丘つづきのおくまったところ、でも「横浜らしいところ」。ハマっ子の作者にとって、幼き日の原風景だったのでしょうか。サギ山のふもとにそってすすむと坂道になり、家がなくなって、クリやクヌギやナラの林になる。澄み切った秋の空から日がこぼれ、枝のあいだで蜘蛛の巣が光っている—見た人にしか描けない描写に思われました。お話のなかの、牧場が出てくる部分を、原文を引用しながら、抜き書きしてみます。

主人公のトコの家に、男の子の赤ん坊が生まれます。8人目の子どもです。トコは、次々生まれた子どもたちに与え続けて、もうおっぱいの出なくなったお母さんと弟のために毎朝、毎晩、牧場へ牛乳を買いに行きます。牛乳を買いにいくところは、オオサワという牧場です。牧場といっても、小さなものです。牛は五、六頭しかいませんでした。牧場のそばには、大きな大きなムクの木があって、高いこずえにモズがとまって、鳴いていることもありました。配達を頼まずに、汗ばんだ手で硬貨を握りしめ、歩いて買いにいくのは、「牛乳屋さんに牛乳をまけてもらって、たくさんほしいから」。

外国人の洗濯を請け負い、ビールの空瓶を荷馬車で運ぶ大人たち。外国人のテニスクラブのたまひろいをする少女たち。「あそぶ人のためにはたらかなければならになんて、貧乏はつらい。でもそうやってはたらいてもらうお金が、あかちゃんのおっぱいになるのです」。残酷なまでの格差への疑問を胸にしまい込んで、生活のために働き続けたひとびとの声が聞こえてくるようです。
物語の結末は甘くありません。関東大震災、その後の空襲ですっかりやられて「サギ山の異人やしきも、ふもとの家も、なにもかも、なくなってしまいました」。

実際に本牧にあった大澤牧場は、1878(明治11)年の創業。大澤延太郎は、渡米した姉を頼って米国に渡り、牧牛を学んだ後、帰国して牧場を開きました。
  • 大鳥小学校を通り、本牧の丘へ

丘の上の暮らし

「僕は牛乳で育てられました。根岸から鷺山、柏葉にかけて牧場がいくつもありましてね。うちは六角牧場というところから熱いのを配達してもらってました。西洋料理はいつも父のおともで食べていました」。
ハマっ子で郷土についての著書もある山口辰男さんが語った、幼い日の牛乳の思い出が、横浜開港資料館発行のニュースレター「開港のひろば」(昭和59年8月1日発行)に掲載されていました。関東大震災のときに数えで二十歳ということは、1905年頃の生まれでしょう。熱いのを配達してもらっていた、ということは、殺菌のため加熱した後、すぐに牛乳を届けていたということでしょうか。

「鷺山には牧場がたくさんあって、道が狭いでしょう、牛がくると通れなくなって、ある時牛のしっぽで制服をひゅっとよごされておこられたことがありましたね」
1923年生まれのリナ・デンシチさんも「開港のひろば」に通学路の思い出を語りました。1930年代には、放牧されている牛たちが連なって道路を歩いていたのですね。
「当時の鷺山は広々として家もあまりありませんし、たいていの家では庭で野菜なんかをつくっていましたね」。「天気によって赤か白のポールを信号としてあげていて、山手のメンバーの家々から見えましたの。今日はテニスができるって。他にいくところがありませんから、そういったクラブは盛んでした」
ほどなく、戦争が外国人住民の豊かな日常を奪い去ることになります。

公園になった大牧場

本牧山頂公園に着くと、「まきばの丘」と名付けられたエリアがありました。大型犬を連れた家族らが散歩し、都市の住民にとって緑あふれる憩いの場となっている広い公園の周辺に牧場があったことが、その名に残っていました。そのひとつ、渡邉牧場は、1914(大正3)年の業界誌「肉と乳」の記事によると、「横浜屈指の大牧場」でした。
  • 本牧山頂公園「まきばの丘」は牧場があった名残り
「横濱成功名誉鑑」によると、経営者渡邉豊吉は埼玉出身。1882(明治15)年に横浜に来て、1885(明治18)年から搾乳業に従事し、北海道や各県の牧場を視察して牧場の改善に取り組みました。1909(明治42)年には農商務省畜産奨励会に出品して優秀賞を得、80円の奨励金を授与されたと伝えられています。

「箕輪下停留場に下車し、南に約三丁程行くと入込んだ丘の中腹に渋色の大きな牛舎と数棟の赤い建物とが見える」と1914(大正3)年新年号の探訪記事にあります。ホルスタインとエアシャーがほぼ半々で、ジャージー他雑種を含めて搾乳牛は100頭を数えたとか。ミルカーのない当時、100頭を何人の手で搾乳していたのでしょうね。種牡5頭、育成牛、乾乳牛、仔牛を含めて数十頭を飼養し、80頭規模の牛舎や運動場、処理室などは清潔に管理され、丘が連なる起伏のある土地にあって効率的に配置されていることは「敬服に耐えぬ」と記されています。
  • 肉と乳(1914年)に掲載された渡邉牧場の写真

横浜から房総に運ばれた牛糞

記事が注目して、詳しく伝えたのは、牛糞の有効活用でした。

「搾乳業と牛糞の処理は衛生上の問題として往々解決に苦しむ地方なきに非らずだが、横浜地方の搾乳場に於ては一旦日光に乾燥し一週間程堆積して重量が約三分ノ一に減縮したる後ち空俵に蔵め之を一俵(十一貫余)、二〇銭に売却する、其乾燥牛糞は肥料商人の手を経て海路下総地方の農家に供給するそうである 」(「肉と乳」大正3年新年号 「渡邉牧場を観る」1914年)

「横浜地方の搾乳場に於ては」との記述から、乾燥牛糞に加工していた牧場は他にもあったと考えられます。「渡邉牧場の如きは百数十頭より生ずる牛糞は難なく処分せらるると同時に年々相当の収入を挙ぐるという」とあり、肥料商人によって買い取られる牛糞は、牧場の収入源になっていました。房総ではビール用の麦が栽培され、船で横浜に運ばれました。ビール粕は乳牛の飼料となり、牛糞が天日で乾燥されて房総の土の肥やしとなる——。資源循環型の農業が、環境に負荷の小さい海上輸送を通じて実践されていたのです。
研究者の斎藤多喜夫さんは「きわめて合理的な資源の循環が行われていたわけである。牛糞が麦酒麦の返り荷の役割を果していたことになる。預かり牛としての牝牛の移動も含めて、横浜と房総との関係にあっては、海は地域を隔てるよりも、結びつける働きをしていたのである」と指摘しています。海路という言葉があるとおり、日本人にとって古来海は、離れた陸地をつなぐ「道」だったのですね。
 【参考文献】
 森田忠吉「横濱成功名誉鑑」1910年
 肉食奨励会「肉と乳」大正3年新年号 1914年
 平塚武二 「ヨコハマのサギ山 日本児童文学名作選10」1973年
 横浜開港資料館「開港のひろば」Ⅰ 1992年
 斎藤多喜夫「都市近郊搾乳場の経営—幕末・明治・大正期の横浜の事例から—」
 「横浜開港資料館紀要」18号 2000年
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]