【横浜編】
第6回 牛乳屋さんの百年 その1

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

それまで静かな一漁村だった横浜は、1859(安政6)年の開港以来、外国人が身近に生活する国際色豊かな港町として発展しました。欧米人によって持ち込まれた「酪農」という異文化が、他の地域に先んじていちはやく浸透し、日本における近代酪農の先駆けとなっていきます。

第6回 牛乳屋さんの百年 その1

金網の向こうに

民家が隙間なく軒を連ねる坂道を上った先、金網のむこう、米軍の接収地には原っぱが広がっていました。ここに、乳牛が放たれて草を食んでいたのではないかーー。振り返ると、根岸競馬場が遠くに見えました。

高層ビルが立ち並び、頭上を観光ロープウェイが通り過ぎる桜木町駅前からバスに乗ること十数分。住宅街を歩いてきた私を、石川文夫さんが出迎えて下さいました。
「駐車場になっているところに牛舎があって、両親は毎日早朝から晩まで働いていました。この辺りには何軒か牧場があったんですよ。うちがたたんだのが最後でした」。

根岸石川牧場。かつての名はBluff Dairy、あるいは石川搾乳所、山手石川搾乳店。文夫さんの高祖父にあたる初代・石川要之助が1885(明治18)年に「英国人モールゲン」(ニコラ・モルギン)から米国産の雌牛6頭と雄牛1頭、牛小屋、器具一式を600円で譲り受けて創業して以来4代にわたり、地域で牧場を続けました。都市における牛乳生産販売の経営を伝える貴重な資料と写真で、石川牧場の歩みをたどってみましょう。

初代による廃棄ビール粕の利用と政治力

1910(明治43)年に刊行された人名録「横浜成功名誉鑑」は、横浜が誇る牛乳搾取業者として「山岸石川大澤の三氏」を挙げています。そのひとり、石川要之助は青森県出身で、「英国人カークードに私淑し、明治十八年横浜根岸に牧場を新設し、乳牛僅かに十一頭を飼育して営業を開始せり」。当時、牧場は現在の場所から、1.2キロほど離れた地蔵坂上にありました。
  • 石川要之助(写真:石川文夫さん提供)

  • かつての石川牧場(年代不明、写真:石川文夫さん提供)
要之助が影響を受けたとされるイギリス人「カークード」は、1874(明治7)年に来日したW・M・H・カークウッドで、1885(明治18)年までイギリス公使館や各領事館の法律顧問を務めた後、居留地で弁護士を開業した人物です。
要之助は、乳牛改良に力を入れ、明治25年頃には50頭を有し、模範的な牧場としてイギリス海軍病院、ドイツ海軍病院、グランドホテル、カナダ郵船会社への牛乳出荷を一手に引き受け、「内外の信用頗る厚く、特に衛生を重んずる外人間の嘱望最も大なりき」。1889(明治22)年には横浜牛乳組合長に選ばれ、経費が足りないときは自費を投じて補てんし、組合の基盤を固めたということです。
1898(明治31)年、神奈川県が家畜税一頭につき1円を課すと決めた際には「欧米各国の如き畜産旺盛の国に於いてすら聞かざる苛税を、我幼稚なる畜産業に課するは事業の発達を阻害するもの」として廃案を主張。大日本畜産会幹事長の玉利喜蔵博士を介して、前田正名会長が神奈川県知事に申し入れ、課税廃止が実現したことを、要之助の熱意のたまものと称えています。

石川牧場初代である要之助の足跡のうち、注目すべきものとして、ビール粕の活用があります。以下に、1968(昭和43)年、明治維新から100年の年に刊行された「デーリィマン」臨時増刊号は、「粕酪農のトップランナー」として石川牧場を紹介しました。記事の一部を引用します。

「ところで要之助さんは、山の手の天沼にビール会社ができたとき、ビール粕を盛んに出していて、しかもその始末に困って、船で捨てにいくのをみた。そこでこれを乳牛の飼料にできないものかとかんがえたのである。ところが、『そんなものを牛にやると牛が酔っぱらってしまう。牛をいためてしまう』などの声がでた。しかし、自信のあった要之助さんは、人が何といおうとさっそく乳牛に与えてみた。その結果乳も以前よりよく出るし、牛も好んで食べたので、こんどは、反対していた人々が先を競ってビール粕を飼料にしたということである。ビール粕を飼料にしたのは、この要之助さんがわが国では最初であろう。」

同じ記事に、要之助が組合員の余乳を引き取り、ボイルして穴蔵で貯蔵、横浜港へ外国船が入るとすぐにこれを売却して利益をあげたとのエピソードも紹介されています。居留地に多くの上得意がいた石川搾乳店は全盛を極めたそうです。この話の出どころが、要之助の孫にあたる3代目の実だと仮定すると、祖父か父から聞いた話である可能性が高いと思われます。実は、要之助の後継者となった次女のフミ子夫妻の長男で、1902(明治35)年生まれ。この記事の取材当時は、息子の4代目・要蔵とともに牧場で働いていました。
ビール粕の処方の権利を会社から任せられた要之助は、ビール粕の配分のために「横浜搾取組合」を結成。組合の許可は1887(明治20)年4月26日、神奈川県知事から出されたとあります。この横浜搾取組合は、おそらく日本で最初の酪農組合だと思われます。
後年、北海道・札幌近郊でアメリカ帰りの宇都宮仙太郎が、開拓使札幌麦酒醸造所からビール粕を共同購入する「四日会」という同業者の集まりから、任意団体「札幌牛乳搾取業組合」(1905年設立)を組織します。「横浜搾取組合」も「札幌牛乳搾取業組合」も、元をたどれば、ビール粕の共同利用からスタートしたことがわかり、興味深いですね。

英語の値上げ通知

石川牧場の初代の経営内容を今に伝える資料のひとつに、1897(明治30)年11月23日付の外国人得意客への値上げの通知文書があります。

英語で書かれたこの文書によって、当時この牧場が、牛乳、クリーム、バターを販売していたことがわかります。
通知内容を見ると、「翌12月1日からの価格は、牛乳1ビン12銭、1パイント5銭、クリームが1ビン85銭、フレッシュバター1ポンドが85銭」となっています。1パイント(pint)は、アメリカでは8分の1ガロン、約0.473リットルで、イギリスでは約0.568リットルです。ビン(bottle)の容量は不明ですが、入手が容易なものとしては一升瓶と考えればつじつまが合うのではないでしょうか。価格は想像以上にリーズナブルなのは、病院や企業など大口顧客が多かったことも影響しているかも知れません。
同様の英文による値上げの通知は1900(明治33)年4月30日付のものもあり、5月1日からの牛乳価格を知らせる内容でした。牛乳1ビン14銭、1パイント7銭です。この頃には頭数も増えて、手間のかかるクリームとバターの加工販売はやめてしまったのかも知れません。
  • 宣伝用と見られる絵はがき
  • 値上げ通知(1897年11月23日)

当時の乳質検査記録

1898(明治32)年6月13日の「石川要之助宅ニ於テ バアブークス・ミルクテストヲ以テ試験シタル結果表」という資料があります。技師らの立ち合いのもと、当時の牛乳組合に所属している地域の酪農家がサンプルを持ち寄り、バブコック法を用いて乳質検査を行ったと考えられます。前年1897(明治31)年に牛乳営業取締規則が改正され、比重が1.028-1.034の範囲内であること、脂肪含量2.8パーセント以上というのが販売の条件と定められたことが背景にあるとみられます。
酪農家19人の生乳について、石川要之助、八木㐂作、青木重三郎と技師2人の立会いの下、検査を行った記録と見られます。八木、青木は有力な牧場経営者で、青木については、中川嘉兵衛がD・Bシモンズに雇われて牛乳を供給していた幕末期に配達夫だったとの話が伝わっています。1881(明治14)年に下総の種畜場で煉乳製造を学び、1894(明治27)年に根岸立野山で煉乳製造所を開いたとされる石川駒吉の名も見えます。
石川牧場の数字は「比重1.0298、脂肪4.2、固形分8.69」、次に同人「惣混」とあるのは、ホルスタイン、エアシャーなど異なる種類の牛からの牛乳を混ぜた合乳でしょうか。固形分はほぼ同様の8.7ですが、比重と脂肪は低い数値となっています。後日の6月17日にも検査が行われ、中澤源蔵、高梨升三郎、大澤延太郎らの名前があります。
  • ミルクテスト(乳質検査)の結果表(1899年6月13日)
資料の綴りのなかに、1903(明治36)年から1908(明治41)年にかけての「中元歳暮控」がありました。1903(明治36)年12月の歳暮、外国人が多い山手地区と病院と見られる一号車の顧客への歳暮には、「キジ2羽」「山鳥4羽」、それに「チース(チーズ)」が多く見られました。古くから珍重された野鳥はともかく、輸入物のチーズは外国人の得意先からの希望があったのでしょうか。日本人には「サトウ」や「ビスケット」などと記されています。得意先の好みに合わせて調達し、届ける労力たるや…顧客に尽くした理由は、それだけ競争が激しかったことを物語っているかも知れません。
 【参考文献】
 「横濱姓名録 全」1898年
  森田忠吉「横浜成功名誉鑑」1910年
  「横濱市史稿・産業編」1932年
  デーリィマン 日本酪農100年臨時増刊号 1968年
  Jミルク編「近代日本の乳食文化 その経緯と定着」2019年
  芳賀徹・酒井忠康・清水勲・河本皓嗣・新井潤美編
  「ワーグマン素描コレクション 上」2002年
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]