【横浜編】
第7回 牛乳屋さんの百年 その2

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

それまで静かな一漁村だった横浜は、1859(安政6)年の開港以来、外国人が身近に生活する国際色豊かな港町として発展しました。欧米人によって持ち込まれた「酪農」という異文化が、他の地域に先んじていちはやく浸透し、日本における近代酪農の先駆けとなっていきます。

第7回 牛乳屋さんの百年 その2

石川牧場の初代・石川要之助が60歳で亡くなった1908(明治41)年、横浜の酪農業界に激震が走りました。横浜市内で牛疫が発生したのです。1910(明治43)年には根岸に広がり、石川牧場の乳牛にも感染が発生しました。明治最後の年、現在はテニスコートが広がる地蔵坂上の牧場を引き払い、現在地の簑沢に移転しました。
当時の簑沢は、畑地や草原が広がる閑静な場所で、40町の飼料畑を有していたといいます。ご家族が保管されている、布張りの厚いアルバムを、初代から数えて5世代目にあたる石川文夫さんに見せてもらいました。
「この写真は、確かにこの上で撮影されたものです」。戦後に接収されて現在も米軍用地となっている金網のむこうに広がる放牧地で、乳牛が草を食んでいました。
  • 現在、米軍用地となっている戦前と見られる放牧風景

写真は語る

文夫さんによれば、現在、駐車場になっているところや賃貸住宅のある場所に、牛舎が建っていました。
関東大震災前の1921(大正10)年頃の撮影とされる1枚には、要之助の孫にあたる実が牛乳を運ぶ人力車を引く姿が写っていました。車には「BLUFF DAIRY 純良牛乳」の文字、後ろには遊郭の門があります。
  • 大正10年頃の牛乳を運ぶ人力車を引く石川実
「震災までは儲かりましたよ。なにしろ生産乳量を全部処理して全部売れてしまうのですから。現在は骨ばかり折れて儲からなくなりました」。1968(昭和43)年、明治維新百年の年に刊行されたDAIRYMAN酪農100年記念 臨時増刊号の記事に、実の語りが残っていました。
1885年から半世紀続けてきた牛乳屋稼業、つまり市乳処理販売業を止めたのは、1934(昭和9)年のことでした。「牛乳屋商売というものは、搾乳→処理→加工→販売という順序でやらないと儲かるものではありません。昭和のはじめころが、一番牛乳屋の繁栄した時代です」。地域の酪農史を語る、実感のこもった言葉です。
牧場は、乳業に生乳を供給するのではなく、自らの手で搾った牛乳を加熱処理して、ビンに入れてすべて売りさばく——生産する牛乳の品質、地域で長年重ねた信頼があってこそ、成り立つ商売でした。
  • 日に1斗4升を泌乳した功労牛・白菊号 大正末15年頃

戦時の牧場

第二次世界大戦が勃発する1939(昭和14)年には国民を軍需産業に動員する国民徴用令も制定され、人びとの暮らしも戦時体制に組み込まれていきました。1866(慶応2)年に建設された根岸の競馬場も事実上閉鎖となり、駿馬のいななきは聞こえなくなりました。1942(昭和17)年8月には競馬場で焼夷弾を使っての防火訓練が開かれ、やがて軍需工場として使用されました。牧場の飼料となっていた豆腐や餡の工場から出る粕も入手は困難となりました。芋のつるさえ人間の食料と言われるほどの食料難では、家畜の飼料どころではありませんでした。
根岸の柏葉地区にあった矢田牧場では1943(昭和18)年に十数頭の牛を千葉に疎開させました。「殺すわけにはゆきませんもの…。牛が居なくなった牧舎二棟は軍需工場に転換されました。(中略)海軍の将校用の短剣や、陸軍のごぼう剣などの『さや』を作ったんです。敗けたときは、その半製品の『さや』が山のようでした」という牧場関係者の語りが記録されています。
実が牛とともに納まった写真のなかに、痩せた1頭の牛の写真がありました。撮影された時期も、その意図も今となってはわかりません。もしかしたら、こんな酷い時代があったことを記録にとどめようとしたのかも知れません。

牛乳屋のプライド

牧場の4代目・石川要蔵が作成した、牧場と家族の歩みを綴った年表を見せてもらいました。「1985(昭和60)年、「4月 石川牧場百年祭」。翌1986(昭和61)年には「生産調整 乳価値下げ6円」の文字がありました。 「牧場は伝染病、震災、大戦、畜産公害問題、といくつもの荒波を越えてきた。でも私の代で終わりですね。酪農を続けていく環境が悪すぎる…」。1987(昭和62)年の冬、要蔵は、神奈川新聞の記者に心情を語っています。
  • 妻・久子(左)と搾乳する石川要蔵(1983年)
    NHK「明るい農村」取材班が撮影(石川文夫さん提供)
子どもに牧場を継がせないとの決意は固く、長男の文夫さんによれば、夏休みなどに牛舎の仕事を手伝うことはあっても、搾乳は一切させなかったといいます。
幼い頃、祖母に“えらい家に生まれてきたな”と言われたのをおぼえている、と話した要蔵。初代の「要之助」から一字をもらい、親の期待に応えて獣医の道に進み、1957(昭和32)年までは中区周辺の酪農家の人工授精を一手に引き受けました。牧場の資料のなかに、牛乳の冷却機械のものと見られる手書きの設計図がありました。電気工学に興味があった、と話した牧場主の手による創意工夫だったと思われます。文夫さんは「冷却器に凍り付いた牛乳をこそげて食べるのがおいしかった。幼い頃は、母が前かごに牛乳を載せて自転車で近所に配達していた記憶があります」と懐かしそうに話して下さいました。
1987年の記事には当時の経営について、「9頭を搾乳、日に150キロを大手乳業に出荷」とあります。1980年代、国内の牛乳は生産過剰傾向となり、出荷量の規制が続いて、基準乳価も数年ほぼ横ばい状態が続きました。牛舎の新築などの規模拡大の認可が下りる見込みがないなか、要蔵は12頭が飼える牛舎一棟を残し、経営規模を縮小しました。「乳質の良さでは全国でもピカ一というのが要蔵さんの自負だ。しかし、この特性も行かされず、他の牧場のものと混合される」——記事が、要蔵の思いを代弁しているような気がしました。
60歳で定年退職すると自ら決めたとおり、1990(平成2)年に105年続いた都市近郊での牛乳生産にピリオドを打ちました。明治から昭和にかけて都市近郊で乳牛を飼い、自ら生産した「顔」の見える牛乳を地域住民に提供した、牛乳屋さんの時代がここ横浜にも確かにあったことを、石川牧場の歴史が教えてくれました。
 【参考文献】
 「横浜 中区史」1985年
 DAIRYMAN 酪農百年記念臨時増刊号 1968年11月
 神奈川新聞 1987年2月28日付 Yokohama Street Talk
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]