【横浜編】
第8回 シェフのベシャメルソース

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

それまで静かな一漁村だった横浜は、1859(安政6)年の開港以来、外国人が身近に生活する国際色豊かな港町として発展しました。欧米人によって持ち込まれた「酪農」という異文化が、他の地域に先んじていちはやく浸透し、日本における近代酪農の先駆けとなっていきます。

第8回 シェフのベシャメルソース

“ウォーターストリート”を歩く

関内から海へ向かって歩き、かつての居留地「英一番館」があった山下町のシルクセンターで右折。水町通りに入ると、左手にマリンタワーが見えました。ここはかつて居留地「ウォーターストリート」。明治の昔には商社や店舗が並んでいたそうです。横浜出身の作家・獅子文六は幼少期、父親の店があったこの界隈の様子を自伝的小説に綴りました。

「また、ウオーター・ストリートには、ユダヤ人の菓子屋があり、店員に連れられて、そこへ行くと、主人の外人が、私の首へナプキンを巻いてくれ、店の中で、立ちながら、ケーキを食わされた。シュークリームとか、エクレアとかいう菓子は、この世のものとも思われないほど、美味だった。その頃には、東京の風月堂でも、その種のケーキはなかった。」 ———「父の乳」(1968年)
  • ウォーターストリートと呼ばれた水町通
洋食の味を、横浜公園の中央にあった居留外人向けの社交クラブで覚えたこと。純白のクロスのかかった円い卓で、父と向かい合う嬉しさと、出てくる料理は全部うまいが、特に「干し葡萄の入った暖かいプディング」が美味だったこと。いずれも、外国文化と隣り合わせの街だからこその原体験でした。
海岸通りにある、一軒の老舗ホテルに向かって歩きます。1923(大正12)年9月1日の関東大震災ですべてが破壊された横浜の街に、復興のシンボルとして1927(昭和2)年に開業したホテルニューグランド。お目当ては、このホテル発祥と言われるドリアです。
昭和のはじめの横浜に、彗星のごとくやって来たシェフのサリー・ワイルは、バターとベシャメルソースをたっぷり使ったドリアをはじめ、洋食のおいしさを、その腕で日本に伝えた人でした。
  • ホテル開業時の外観と当時の宣伝パンフレット(部分)。ホテルニューグランド提供

料理長の即興料理

ホテルの沿革史によると、開業時にパリから招かれた若きシェフ・サリー・ワイルはスイス出身で、当時のフランス料理の堅苦しさを排した、斬新なアイデアをいくつも繰り出しました。二階の大食堂のほかに一階にグリルを開設すること。メニューには、コース料理ではない、一品料理(アラカルト)を数多く並べること。食べたい料理だけを注文して食べられることが好評を博し、他のホテルにも広まっていったそうです。
20世紀初頭のパリで活躍したフランス料理のシェフで、「料理人の王様で、王様の料理長」と称されるオーギュスト・エスコフィエの流れをくむ正統派フレンチを、カジュアルに提供したのですから評判にならないはずがありません。

同ホテル広報の横山ひとみさんは「メニューに『コック長はメニュー外のいかなる料理にもご用命に応じます』と書かせていたのです。楽団の生演奏を取り入れるなど、ユニークで柔軟な発想を持つ方だったようです」。ワイルはホールに顔を出し、食事中の客に「料理の味はどうか?」「何か注文はないか」と声をかけ、話し相手が欲しそうな客に愛想よく対応したと言われ、コミュニケーションの達人でもあったのですね。
ある時、滞在していた銀行家から、「体調が良くないので、何かのどを通りやすいものを」との要望があり、ワイルは、バターライスに海老のクリーム煮を乗せ、グラタンソースをかけてオーブンで焼いたものを出しました。好評を博したこの創作料理は、"Shrimp Doria"(海老と御飯の混合)と名付けられ、ホテルの名物メニューとなりました。

現存するメニューの記載から、1934(昭和9)年11月以前の出来事と推測されます。ワイルの下で働いた弟子の料理人によって、他のホテルやレストランにもレシピが広まったのが、今ではおなじみの定番メニューとなったドリアだということです。
かつてのグリルが改装されたTHE CAFÉで、シーフードのドリアを味わいました。バターライスの上に、魚介の出汁のきいたオレンジ色のニューバーグソースと白いベシャメルソースが折り重なり、海を臨むホテルにぴったりの、贅沢な一品でした。
  • シーフードドリア

メニューのなかに

年代はさだかではないといいますが、ホテルに残る戦前のメニューを見せてもらいました。
玉蜀黍クリームスープ、骨抜 舌平目バター焼、蟹クリーム煮、伊勢海老グラタン、鳥肝臓バター飯詰め…。カロットバターというのは、ニンジンのグラッセのようなものでしょうか。バター、そしてベシャメルソースを使った料理が多く並んでいます。
  • ホテルに残る戦前のメニュー
「チーズと果物」の項目には、ロックフォール、ゴルゴンゾーラ、スイスグリュエールがあるのはスイス人シェフらしいチョイスです。アメリカの「クラフト」と、北海道の文字があります。
当時の北海道産チーズといえば、函館郊外のトラピスチヌ修道院(天使園)で修道女によるチーズ、あるいはトラピスト修道院製、または工場生産が始まったばかりの国産プロセスチーズだったかもしれません。ホテルの近くに横浜本店があった明治屋の社史をめくると、1914(大正3)年に、「天使園のグーダチーズを発売」との記載がありました。
「ワイル総料理長の料理はバター、クリームをよく使うんです。ベシャメルソースには、すましバターを用いることで軽さを出します。低温のオーブンで時間をかけて加熱し、モスリンの布で濾して舌触りをよくします。昔ながらのことを続けています」と話すのは、関口真司・総料理長です。ホワイトソースを使った料理は今も人気が高く、地元のタカナシ乳業の乳製品は、ホテルの味の決め手となる、欠かせない食材だということです。
  • 「調理場に入った当初、料理長が食べさせてくれたクリーム煮のおいしさが忘れられない」と話す関口総料理長

特注のクリーム

神山典士さんによる評伝『初代総料理長サリー・ワイル』に、ワイル総料理長の下で働きたいと横浜に来て、ニューグランドの調理場で腕を磨いた馬場久シェフが伝えたワイル直伝のハンバーグのレシピが引用されていました。料理の経済性も重視したという、その料理の実際がうかがえます。

牛のもも肉を手回しのスイス製挽き肉機で1回挽き、1割の脂肪をまぜる。ハンバーグに混ぜるパンの量は10パーセント。この挽き肉に一割のバターで炒めたタマネギを混ぜ、200グラムの肉に対して卵半分と塩、コショウ、ナツメグ等を加えていく。パンにエバクリームを混ぜてしぼり、1個100グラムに丸めて、1.5センチの厚さで焼く。

このハンバーグに使われたエバクリームは、ワイルの指示で、横浜近郊・金沢文庫の小さな牧場で特別に作らせていたと弟子が語っています。妥協を許さないシェフのこだわりが、ホテルの味を支えていたのでしょう。このハンバーグはランチの定食として供され、好評を博したそうです。

ニューグランド発祥と言われるもうひとつの名物料理・ナポリタンスパゲティも、最後に冷たいバターを加えて仕上げるのだそうです。
かつてワイルに指導を受けた石橋豊吉が、横浜市野毛で開いた洋食店センターグリルのチキン・ピカタも、当時のこだわりを今に伝える料理のひとつだそうです。石橋が語った味の決め手は「惜しげもなく使った、大量のバター」でした。
ワイル総料理長とバターについて、シェフたちが語ったことばを読み続けていたら、お腹がすきました。晩年のワイルがスイスで振舞ったと言われる「バターの中で泳いでいるような目玉焼き」を作ってみたら、いつもとは比べ物にならない美味しさでした。信じられないあなたは、ぜひお試しを。

レシピを次世代へ

太平洋戦争が始まると、他の外国人と同じくワイルは、軽井沢の収容所に強制的に送られ、5年にわたって収容されました。1945年(昭和20)年8月の終戦と同時に、横浜には3万人もの米国陸軍が進駐します。ニューグランドは300人の将校の宿舎になりました。その年の末には横浜に進駐した占領軍は9万4千人余りに達しました。
横浜の市街地面積の27%、中心部の中区は34.6%、港湾施設に至っては9割が接収され、日本は使用不可となりました。伊勢佐木町の野沢屋はPXと呼ばれた軍人用の売店に、デパート松屋は米軍の病院に、他のビルも兵舎や郵便局として使用され、中華街近くの加賀町警察署も米軍憲兵隊の詰所となりました。1946(昭和21)年の秋、ワイルは20年暮らした日本をあとにしました。ニューグランド再開のめどはたっていませんでした。
それから10年、戦後の1956(昭和31)年10月、国内の名だたるホテルの料理長となった弟子たちの招きで再び日本の土を踏んだワイルは、成田空港でコック帽をかぶった大勢のシェフらに出迎えられました。ヨーロッパでの料理修行を希望する日本人の若手にスイスでの研修先を紹介し、1976(昭和51)年に亡くなるまで、「スイス・パパ」と慕われました。
ニューグランドでは近年、ワイル総料理長の愛弟子だった2代目・入江茂忠総料理長が走り書きしたメモなど、大量にあったレシピの整理が進められてきました。料理の研修会で代々のシェフが入手した情報を含め、これまで数値化されていなかった千を超えるレシピを、2年がかりでデータにまとめられました。伝統の味を将来につなぐ、地道な努力が続けられています。

ホテル1階の廊下に開業当時のパンフレットや、ホテルの歩みを伝える年表の展示がありました。喜劇王C.チャップリン、日米親善野球で来日したベーブ・ルースらが宿泊した際のエピソードも紹介されています。
2024(令和6)年5月、ホテル近くに、ワイルの名を冠したスーベニア・ショップがオープンしました。ワイルの弟子だったベーカリーシェフが1951(昭和26)年に開き、惜しまれながら閉店した東京・神田小川町のフランス菓子店の流れを汲む、コーヒー味バタークリームのロールケーキがおすすめだそうです。
 【参考文献】
 白土秀次「ホテル・ニューグランド50年史」1977年
 「獅子文六全集 第十巻」1969年
 中村雄昴「西洋料理人物語」1985年
 小幡正雄・串田誠一・しおはまやすみ「横浜の街創りと文化の伝統」2003年
 早坂勝「メニューに視る食文化」2004年
 神山典士「初代総料理長サリー・ワイル」2005年
 明治屋百年史 1987年
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]